第2話 未来へ書く一行
第2話 未来へ書く一行
翌朝、咲良はまだ空が青黒いうちに目を覚ました。屋根裏の小さな部屋には、昨夜干した濡れた靴下の匂いと、古い木箱から立ちのぼる乾いた埃の匂いが残っていた。薄い生成り色の寝間着の上から灰色のカーディガンを羽織り、藁を詰めた寝台を整えると、枕の下に入れておいた紙をそっと取り出した。服飾店の広告の裏には、曲がった字で「きょう、すずめにあえた。わたしは、ついてる」と書かれている。読み返すと昨日の庭の泥や冷たい雨まで思い出したが、その紙を捨てたいとは思わなかった。
階下へ下りる前に、咲良は母の裁縫箱を開けた。青い糸巻きの下には、使いかけの針と、小さく折り畳まれた白い布、それから先の丸くなった鉛筆が入っている。母が生きていた頃は、その箱から針を出して、咲良のワンピースの裾を何度も直してくれた。咲良は紙を糸巻きの下へ戻し、蓋を閉めながら小さく口を動かした。
「うれしい。」
声にした途端、自分で言った言葉が屋根裏の板壁へぶつかり、また耳へ返ってきた。静江や百合の声よりずっと小さかったが、自分の声は逃げずに残った。咲良はそれを確かめるように、もう一度だけつぶやいた。
「今日も、うれしいことを一つ見つけよう。」
台所へ入ると、昨夜の牛肉の煮込みが鍋の中で白く固まっていた。静江と百合の皿には肉が多く残っていたが、咲良の分は玉ねぎの切れ端と冷えた汁だけだった。咲良は鍋を火へかけ、表面に浮いた脂を木匙ですくいながら、かまどの横に置いてあった昨日の黒パンを薄く切った。パンの端は固くなっていたため、煮込みの汁へ浸すと、少しだけ食べやすくなった。
そこへ、真紅の厚手の部屋着を着た静江が入ってきた。髪はまだ結っておらず、片方だけ丸まった前髪を指で伸ばしながら、鍋の中をのぞき込んだ。咲良が牛乳を温めていないことに気づくと、静江はすぐに眉を寄せた。
「朝はミルクに蜂蜜を入れるって、何度言えば分かるの。昨日教えたことも覚えられないなんて、本当に役に立たない子ね。」
咲良は木匙を置き、戸棚から牛乳の瓶を取り出した。昨日は蜂蜜が切れていたため、静江自身が「明日はなくてもいい」と言っていたが、それを口にすれば、言い訳をするなと叱られることは分かっていた。瓶の蓋を開けながら、咲良は胸の内で昨日の四つの言葉を探した。
「ミルクを温めます。」
静江は返事もせず、食堂へ戻っていった。咲良は小鍋へ牛乳を注ぎ、火にかけた。牛乳の表面へ薄い膜が張るのを見ながら、「怒鳴られずに済んだから、ついてる」と考えてみたが、さすがに無理があるような気がした。それでも、牛乳が吹きこぼれる前に気づけたことなら喜んでもいいと思い直した。
「うれしい。」
今度は誰にも聞こえないほど小さく言った。
朝食が終わると、咲良は食堂の床を掃き、廊下を水拭きし、百合の部屋から運び出された洗濯物をたらいへ入れた。百合の白い靴下には泥がつき、桃色の下着には薔薇の香油の匂いが染みついていた。咲良が石鹸をこすりつけていると、二階から百合の声が飛んできた。
「咲良、青いリボンが見つからないの。今すぐ探して!」
咲良は洗濯物から手を離し、濡れた指を前掛けで拭いた。階段を上がると、百合は薄紫色のワンピースを着たまま鏡台の前へ座り、髪を片側だけ巻いていた。机の上には開封した香油の瓶、半分かじった焼き菓子、返事を書きかけの手紙が散らばっている。青いリボンは鏡台の脚に結びついたまま、床へ垂れていた。
「こちらにありました。」
百合は振り返り、咲良の手からリボンを奪った。礼を言う代わりに、洗濯で濡れた咲良の袖を見て鼻をしかめた。
「その格好で部屋に入らないでよ。床が湿るでしょう。」
咲良は足元を見ると、木靴の底から一滴だけ水が落ちていた。すぐに布で拭こうとすると、百合は焼き菓子の紙包みを丸めて床へ落とした。
「ついでに、それも捨てておいて。」
咲良は紙包みを拾った。中には胡桃の欠片が一つ残っていたが、食べようとは思わなかった。百合の部屋を出るとき、鏡台の上の手紙に「領主様」という文字が見えた。昨日読んでしまった便箋の言葉が頭へ戻りかけたが、咲良は目を伏せて扉を閉めた。
洗濯場へ戻ると、たらいの水はすっかり冷たくなっていた。指先が赤くなり、石鹸を握る感覚も薄れていたが、咲良は一枚ずつ汚れを落としていった。白い布を水の中で広げると、窓から入った朝の光が揺れて、魚の鱗のようにきらめいた。その光を見た瞬間、咲良は昨夜の雀の羽を思い出した。
「楽しい。」
自分でも少し違うと思った。洗濯は重く、指は冷たく、腰も痛い。それでも水の光がきれいだったことだけは本当だった。
「水がきれいだから、少し楽しい。」
言い直すと、無理に自分を騙している感じが少し減った。四つの言葉は、嫌なことをなかったことにするためのものではないのかもしれない。嫌なことの中に、まだ誰にも取られていない小さなものを見つけるための言葉なのだと、咲良は思った。
昼前になると、雲が切れて風が出てきた。咲良は裏庭へ洗濯物を運び、紐へ順番に干していった。静江の大きな寝間着、百合の薄紫色のワンピース、白い靴下、台所で使う布巾が風に揺れる。咲良自身の下着は一番端へ小さくまとめ、屋敷の窓から見えにくい場所へ干した。
そこへ隣家の年老いた使用人、マルタが垣根越しに顔を出した。灰色の頭巾をかぶり、籠の中には細い葱と土のついた人参が入っている。マルタは咲良の腕いっぱいの洗濯物を見て、目を丸くした。
「今日も多いねえ。風があるから、夕方までには乾くだろうけど。」
「はい。昨日よりよく乾きそうです。」
マルタは籠の底から小さな赤い林檎を一つ取り出した。形が少し歪み、片側に虫食いの跡がある。
「売り物にならないから、持っておいき。虫のところを切れば食べられるよ。」
咲良は両手で林檎を受け取った。果皮は冷たく、土と青い葉の匂いがした。朝から何度も叱られたことより、その小さな林檎の重みのほうが、今ははっきりと手の中にあった。
「ありがとうございます。とてもうれしいです。」
マルタは少し驚いた顔をして、それから笑った。
「そんな林檎一つで大げさだねえ。」
「でも、今日一番うれしいことです。」
そう言うと、マルタは垣根へ肘をつき、しばらく咲良を見ていた。やがて「じゃあ、今日はいい日だ」と言い、籠を抱えて帰っていった。咲良は林檎を前掛けのポケットへ入れ、洗濯物の続きを干した。
「楽しい。」
今度の言葉は、さっきより自然に出た。
午後は静江の居間を掃除するよう命じられた。居間には重い緑色のカーテンが掛かり、暖炉の上には銀の燭台や家族の肖像画が並んでいる。机の端には、静江が毎日使う茶色い革表紙の帳面が置かれ、その周りには書き損じた紙が何枚も散らばっていた。咲良は机の下へ落ちた紙を拾おうとしたが、そこに自分の名前が書かれているのが見え、手を止めた。
紙には、「咲良は怠け者」「咲良は感謝を知らない」「咲良のせいで家計が苦しい」と乱れた字で書かれていた。別の紙には、隣家のマルタが失礼だとか、肉屋が値段をごまかしたとか、百合の縁談が進まないのは周囲が悪いとか、誰かへの不満がびっしり並んでいる。インクが乾く前に手でこすったのか、文字の一部は黒くにじんでいた。
咲良はその紙を読み続けるうち、胸の奥へ重たい石が増えていくような気がした。書かれた言葉は声より静かなのに、目を閉じても形が残る。雀が言っていた「心は、聞いた言葉、読んだ言葉で作られる」という言葉が、昨日よりよく分かった。
そこへ静江が戻ってきた。濃紺の外出着を着て、手袋を外しながら机へ近づくと、咲良が紙を持っていることに気づいた。
「勝手に読んだの?」
咲良は紙を机へ戻した。何も言わずにいると、静江は唇を細くして笑った。
「本当のことを書いただけよ。読まれて困ることなんてないわ。」
咲良は雑巾を握り直した。以前なら、その言葉をそのまま胸へ入れていたかもしれない。けれど今は、これを自分の真実にするかどうかは、自分にも選べると知っていた。
「私は怠けていません。」
言ったあと、咲良自身が一番驚いた。静江は目を見開き、手袋を机へ投げた。
「口答えするの?」
咲良の指先は震えていた。それでも床を見ず、静江の肩のあたりへ視線を置いた。
「朝から洗濯と掃除と食事の支度をしました。だから、怠けてはいません。」
静江はしばらく言葉を失っていたが、やがて机を手のひらで強くたたいた。
「生意気な子! 夕食は抜きです。反省するまで台所へ来なくていいわ。」
咲良は頭を下げ、雑巾と水桶を持って部屋を出た。廊下へ出た途端、膝から力が抜けそうになった。けれど、自分が初めて自分のために話した言葉は、静江の怒鳴り声よりもはっきり耳に残っていた。
夕食の時間、食堂からは焼いた鶏肉と香草の匂いが漂ってきた。咲良は台所の隅で、昼にもらった林檎を小さなナイフで切った。虫食いの部分を除くと、食べられるところは半分ほどだったが、噛むと酸味のあとから甘さが広がった。棚に残っていた冷めた麦茶を飲み、林檎の芯まで丁寧にかじった。
食堂からは百合の笑い声が聞こえた。
「夕食を抜かれて、今ごろ泣いてるんじゃない?」
静江は鶏肉を切りながら、鼻で笑った。
「少し厳しくしないと、すぐにつけ上がるのよ。」
咲良は台所の椅子へ座り、林檎の種を掌へ出した。泣く代わりに、その種を洗って窓辺の小皿へ置いた。芽が出るかどうかは分からなかったが、春になったら庭の隅へ埋めてみようと思った。
「しあわせ。」
林檎半分でそう言うのは、静江たちが聞けば笑うだろう。それでも、空腹の中で甘いものを一口食べられたこと、マルタが自分を思い出してくれたこと、そして自分で自分を怠け者ではないと言えたことは、咲良にとって小さくない出来事だった。
夜遅く、家中が静かになってから、咲良は屋根裏へ戻った。濡れていた靴下は乾き、椅子の背へ掛けていたカーディガンには、かまどの煙の匂いが染みついていた。咲良は寝台の下から母の裁縫箱を出し、昨日の紙と短い鉛筆を取り出した。服飾店の広告の裏にはまだ余白があり、そこへ今日の一行を書こうとした。
「今日は庭の花がきれいだった。」
そう書こうとして、庭の花を見ていなかったことに気づいた。嘘を書いても、未来の自分に渡す言葉にはならない気がした。咲良は鉛筆の先を紙へ当てたまま、今日あったことを一つずつ思い返した。
冷たい洗濯水。百合の青いリボン。マルタの赤い林檎。静江の机に積まれた黒い文字。そして、自分の口から出た「私は怠けていません」という言葉。咲良は迷った末、ゆっくり書いた。
「今日は、じぶんのために、ほんとうのことをいえた。」
字は昨日より少しだけ濃くなっていた。その下に、いつもの言葉を加えた。
「今日も、ついていました。」
咲良は紙を見つめた。楽しい一日ではなかったし、夕食も食べられなかった。それでも未来の自分がこの一行を読んだとき、今日の自分がただ耐えていただけではないと分かってほしかった。
紙を裁縫箱へしまおうとすると、昨日の一枚と今日の一枚が重なり、少し厚みができた。まだ二枚しかないのに、それは咲良だけの小さな本のように見えた。母の青い糸で紙を束ねれば、やがて本当のノートにできるかもしれない。
咲良は鉛筆を箱へ戻し、毛布の中へ入った。階下では静江の寝室から、まだ紙へ何かを書きつける音が聞こえていた。怒りや不満を書いた紙も一日ごとに増え、咲良の小さな一行も一日ごとに増えていく。どちらの言葉がどんな未来を作るのか、今の咲良には分からなかった。
それでも目を閉じる前に、咲良は今日自分で選んだ言葉を、明日の自分へ聞かせた。
「うれしい。楽しい。しあわせ。ついてる。」
そして最後に、誰にも聞かれない声で付け加えた。
「私は、役立たずじゃない。」




