第1話 神様から授かった言葉
第1話 神様から授かった言葉
朝から細い雨が降り続き、庭の土は黒くぬかるんでいた。咲良は薄茶色の古いワンピースの上に、袖口のほつれた灰色のカーディガンを重ね、台所の流しにたまった皿を一枚ずつ洗っていた。昨夜の夕食に出された鶏肉の煮込みは、静江と百合が肉を食べたあと、鍋の底にニンジンの切れ端と脂の浮いた汁だけが残っており、咲良はそれをご飯にかけて朝食にした。冷えた脂が口の内側にまとわりついたが、井戸の水をくみに行く時間が迫っていたため、味わう余裕もなく飲み込んだ。
食堂では、継母の静江が紺色の部屋着の上に赤い肩掛けを羽織り、温め直したミルクへ蜂蜜を入れていた。義姉の百合は淡い桃色の寝間着のまま椅子に座り、昨日届いた服飾店の広告を眺めながら、焼きたてのパンへ杏のジャムを厚く塗っている。咲良が洗った皿を布巾で拭いていると、手を滑らせたわけでもないのに、木の盆の端が食卓へ小さく当たった。静江はその音だけで眉をつり上げ、銀の匙を受け皿へ置いた。
「朝からうるさい子ね。何をやらせても気が利かないんだから。」
咲良は盆を胸の前で抱え、頭を下げた。言い返せば仕事が増え、黙っていても別の理由で叱られることは、もう何年も前から分かっている。百合はパンの耳を残しながら咲良のカーディガンを眺め、鼻先を指で押さえるようなしぐさをした。
「その服、まだ着ているの? 見ているだけで貧乏くさくなるわ。あなたにはお似合いだけど。」
咲良は返事をせず、パンの耳が置かれた皿を下げた。台所へ戻る途中、その耳を捨てるのが惜しくなり、誰にも見られないよう前掛けのポケットへ入れた。昼になれば、庭仕事の合間に食べられるかもしれないと思ったからだった。けれど静江は、咲良が何も言わないことさえ気に入らなかったらしく、椅子を引いて立ち上がった。
「聞こえなかったの? 本当に役立たずね。あなたなんて、いないほうが家の中が明るくなるわ。」
その言葉は、珍しいものではなかった。咲良は幼い頃から「邪魔」「鈍い」「食べさせるだけ無駄」と言われ、そのたびに自分の体が少しずつ小さくなるような気がしていた。亡くなった母が使っていた小さな裁縫箱は、今も屋根裏の寝床の下へ隠してあり、咲良は夜になると蓋を開け、中に残った青い糸巻きを指で転がすことがあった。母の声を思い出そうとしても、静江の怒鳴り声ばかりが頭に残り、母がどんな調子で名前を呼んでくれたのか、年々分からなくなっていた。
「生まれてこなければよかったのに。」
百合が何気なく口にしたその言葉で、咲良の手から布巾が落ちた。百合は自分の言葉など忘れたように広告へ視線を戻し、静江も蜂蜜入りのミルクを飲み始めている。咲良は布巾を拾うためにかがみ、床板の隙間に入り込んだパンくずを親指で集めた。胸の奥に固いものが詰まり、息を吸うたびに喉が狭くなったが、泣けばまた「大げさだ」と笑われるため、唇を強く結んだ。
午前中、咲良は雨の中で井戸から水を運び、廊下を拭き、百合の部屋に散らばった服を畳んだ。百合の部屋には薔薇の香油の匂いがこもり、鏡台の上には口紅や櫛のほか、途中まで食べた砂糖菓子が紙に包まれたまま置かれていた。咲良が窓辺の靴下を拾うと、その下から新しい便箋が出てきた。金色の縁取りがある便箋には百合の丸い字で、「領主様の夜会へ招かれたら、青いドレスを着たい」と書かれており、最後の行には「咲良には一生似合わない」と付け足されていた。
咲良は便箋を元の位置へ戻し、濡れた髪を耳にかけた。読まなければよかったと思ったが、書かれた言葉は目に入った瞬間から頭の中へ居座り、自分のものではないのに何度も繰り返された。台所へ戻ると、昼食用の豆のスープが鍋の中で煮詰まり、木べらの先に茶色い泡が固まっていた。静江と百合の分だけ皿へよそったあと、咲良は鍋肌に残った豆を一粒ずつ木べらで集め、前掛けのポケットから朝のパンの耳を出した。
雨脚が強くなったのは、その日の午後だった。静江は濡れた玄関を見て機嫌を悪くし、咲良へ庭の排水溝を掃除するよう命じた。咲良は古い木靴を履き、頭へ生成り色の布を巻いて外へ出たが、木靴の底には穴があり、歩くたび冷たい泥水が靴下へしみ込んだ。庭の端に積もった落ち葉をかき集めているうち、熊手の柄が折れ、咲良は濡れた土の上へ尻もちをついた。
屋敷の窓から百合の笑い声が聞こえた。静江も何か言ったらしく、二人の声が重なったあと、窓のカーテンが閉じられた。咲良は折れた熊手を拾ったが、指先へ力が入らず、その場へ置き直した。スカートの裾には泥が付き、膝から下は雨で重くなっている。庭の片隅にある古い石壁まで歩くと、咲良はしゃがみ込み、両腕で膝を抱えた。
母が生きていた頃、この場所には白い小さな花が咲いていた。母は洗濯物を干しながら、その花を「咲良に似ている」と笑ったことがある。どうして似ているのか尋ねると、母は答える前に風で飛んだ布巾を追いかけ、その話はそれきりになった。咲良は雨に濡れた土を見つめながら、あのとき母が何を言おうとしたのか考えたが、思い出せたのは白いエプロンと、焼きたての林檎菓子の匂いだけだった。
「お母さん、私、本当に生まれてこないほうがよかったのかな。」
声に出した途端、押さえていたものが崩れ、咲良は額を膝へ付けた。雨音が屋根や木の葉をたたき、屋敷の中から聞こえる食器の音を消していく。どれほど時間がたったのか分からなくなった頃、足元の泥の上で小さなものが跳ねた。顔を上げると、一羽の雀が石壁の上に止まり、首をかしげながら咲良を見つめていた。
「濡れてしまうよ。」
咲良がそう言うと、雀は逃げずに一度だけ羽を震わせた。雨粒が茶色い羽から散り、近くの葉へ落ちた。咲良は自分の前掛けの端を広げ、雀を雨から隠そうとしたが、雀は石壁から地面へ下り、咲良の木靴のすぐそばまで近づいてきた。こんな天気に餌を探しているのかと思い、咲良はポケットを探ったが、朝のパンの耳は昼に食べてしまっていた。
「ごめんね。何も持っていないの。」
すると、雀が人の声で答えた。
「あなたは、何も持っていないのではありません。」
咲良は息を止め、泥の上へ手を付いた。屋敷の誰かが隠れて話しているのかと辺りを見回したが、庭には誰もいない。雀は濡れた羽を膨らませ、もう一度まっすぐ咲良を見上げた。
「あなたの中には、まだ誰にも奪われていないものがあります。」
咲良は返事ができず、雀の小さなくちばしを見つめた。怖いというより、自分の聞き間違いではないかと確かめたい気持ちが強かった。雨は少し弱まり、遠くの台所から夕食の玉ねぎを炒める匂いが流れてきた。今日は静江の好きな牛肉の煮込みを作る日だったと気づいたが、立ち上がる気にはなれなかった。
「あなたは神様なのですか。」
雀はその問いには答えず、小さな足で泥を二度踏んだ。
「心は、聞いた言葉、読んだ言葉で作られます。」
咲良は眉を寄せた。今日だけでも「役立たず」「邪魔」「生まれてこなければよかった」という言葉を何度も聞き、百合の便箋からは自分を笑う言葉を読んだ。もし雀の言うことが本当なら、自分の心は静江と百合の言葉だけで作られてしまうことになる。咲良が両手を握ると、雀はそれを見ているように首を傾けた。
「では、私はずっと役立たずのままなのですか。」
「いいえ。何を心へ入れるかは、あなたにも選べます。人が投げつけた言葉を、すべて自分の真実にする必要はありません。」
咲良は、自分にそんなことができるとは思えなかった。毎日同じ言葉を聞けば、いつの間にかそれが本当のように感じられる。けれど雀の声には、静江のような苛立ちも、百合のような嘲りもなかった。母が寝る前に絵本を読んでくれたときのように、一つずつ確かめながら話しているように聞こえた。
「それなら、どんな言葉を入れればいいのですか。」
「あなたの心を温め、立ち上がる力をくれる言葉です。誰かから聞けない日には、自分で話し、自分で書けばよいのです。」
雀は石壁へ飛び乗り、雨に濡れた庭を見渡した。排水溝には咲良が集めた落ち葉がまだ半分残り、折れた熊手も泥の上へ転がっている。何一つ片付いていないのに、咲良はさっきより呼吸がしやすくなっていることに気づいた。
「未来は、話した言葉、書いた言葉で作られます。」
咲良は濡れた袖で頬を拭いた。未来という言葉を聞いても、これまでは静江の家で年を取り、同じように働き続ける姿しか浮かばなかった。けれど、自分が口にする言葉や書く言葉で未来が変わるのなら、ほんの少しだけ試してみたいと思った。失敗しても、今より悪くなることはないような気がした。
「何を話して、何を書けばいいのですか。」
雀はくちばしを開き、四つの言葉をゆっくり教えた。
「うれしい。」
咲良は小さな声で繰り返した。
「うれしい。」
「楽しい。」
「楽しい。」
「しあわせ。」
その言葉だけは、口にするまで少し時間がかかった。咲良は屋敷の窓を見上げ、静江と百合に聞かれないよう声を落とした。
「しあわせ。」
「ついてる。」
「ついてる。」
四つの言葉を言い終えても、泥だらけの服がきれいになるわけではなく、折れた熊手が元に戻るわけでもなかった。けれど咲良の口から出た言葉は、静江や百合に命じられたものではなく、自分で選んだものだった。そのことが不思議で、咲良はもう一度、今度は少しはっきりと言った。
「うれしい。楽しい。しあわせ。ついてる。」
雀は羽を広げた。雲の切れ間から薄い光が差し込み、石壁の上にたまった雨水が白く光った。
「苦しい日にこそ、その言葉を未来へ届けるのです。うれしいことがあったから言うのではありません。未来にうれしいことを迎えるために、今日のあなたが言うのです。」
雀は庭の木へ飛び移り、さらに高い枝へ上がっていった。咲良は慌てて立ち上がり、泥の付いた手を前掛けで拭いた。
「また会えますか。」
雀は一度だけ鳴いたあと、雨上がりの空へ飛んでいった。咲良はしばらくその姿を追っていたが、やがて屋敷の中から静江が鍋の蓋を乱暴に置く音が聞こえたため、折れた熊手を拾い上げた。排水溝の掃除はまだ残っており、夕食の支度も始めなければならない。
その夜、咲良は牛肉の煮込みを静江と百合の皿へ盛り、自分は鍋の底に残った玉ねぎとスープを黒パンへ染み込ませて食べた。屋根裏の部屋へ戻ると、濡れた靴下を椅子の背へ掛け、母の裁縫箱から短くなった鉛筆を取り出した。紙を買うお金はなかったため、百合が捨てた服飾店の広告を裏返し、膝の上に置いた。
咲良はしばらく鉛筆を握ったまま、最初の一文字を書けずにいた。きれいな字ではないと笑われたことも、何を書いても無駄だと言われたことも思い出した。けれど紙の裏側は誰の言葉も書かれておらず、これから自分の言葉を置くことができた。咲良は曲がった文字で、ゆっくり一行を書いた。
「きょう、すずめにあえた。わたしは、ついてる。」
書き終えると、咲良は鉛筆を裁縫箱へ戻し、紙を青い糸巻きの下へ大切にしまった。階下では百合が何かを落とし、静江が使用人の悪口を言っている声が聞こえていた。それでも咲良は薄い毛布へ入り、暗い天井を見ながら、教わった四つの言葉をもう一度だけ口にした。
「うれしい。楽しい。しあわせ。ついてる。」
その晩、咲良は久しぶりに、母が白い花のそばで笑っている夢を見た。




