第5話 媚びる者、企む者
彼を一言で表すなら、息を呑むほどの美青年だった。
エリナの記憶は曖昧だ。幼い頃にほんの少し顔を合わせただけなのだから、細部まで覚えているはずもない。
それでも、ガストという男がどのような容姿をしていたかは覚えている。
ふっくらとした体型。一般的に言えば、太っていると表現されるにふさわしい姿。
野菜を嫌い、肉ばかり好む偏食を改善したのだろうか。いや、そんな程度の話ではない。体格どころか、顔立ちにすら昔の面影を感じさせないほど変わっている。
エリナは驚きを隠せなかった。
だが、そんな反応をしているのは、せいぜい彼女だけだった。
後ろで控えている若い給仕の女たちは、先ほどから小さな歓喜の声を上げるばかりで、その正体を疑う様子などまるでない。
大臣や文官、何より父や弟はどう見ているのか。エリナは木陰の目立たない場所から顔を出し、護衛兵に囲まれながらカーペットを歩く王子を観察しつつ、二人の様子も窺った。
父カルロの様子は変わらない。心の中では何かを感じ取っているのかもしれないが、ここから見ただけでは判断できなかった。
なら、弟の方は――。
「あの馬鹿っ」
反射的に声が漏れた。
弟であるベルは、他の兵士たちと共に列を乱しながら、体を乗り出すようにして王子の顔を凝視していた。兵士らを統率する上官がその様子を黙って見過ごすはずもなく、すぐさま厳しい喝が飛ぶ。
「馬鹿共が! もう少し礼儀良くできねぇのか!」
父の隣に立つガラル王国副騎士団長、ライドが舌打ちをしながら部下たちの様子に呆れていた。
何かを話しているようだったが、最前列で警備している父と、最後尾に近い場所にいるエリナとでは距離がある。さすがに会話の内容までは聞き取れない。
「ったく。まぁ、新しい王様がどんなお人なのか気になる気持ちは分かるけどよ」
「……ライド。お前もそこが気になるか?」
「そりゃそうだろ。これから仕える主人が変わるわけだしよ。それ以外に何がある?」
「いや、何でもない。ただ、まさかな」
エリナとカルロは、ガスト王子の違和感を敏感に感じ取っていた。この場で唯一、真実に近い場所へ足を踏み入れかけていた二人である。だが、どちらにも確証と呼べるだけの根拠はない。ほんの僅かな期間しか王城での暮らしを共にしていなかった。
その時間の少なさは、王子を演じるファラクにとって大きな利点として働いていた。疑う者はほとんどいない。その状況に、歓迎の声を浴びながら悠然と歩みを進めるファラクは、内心で笑っていた。
あまりにも、やりやすい。
◇◆◇
王城総出で行われた王子帰還の儀は、何事もなく粛々と終わった。その後、事前に準備されていた城内の大広間では祝宴が催される。表向きの目的は、王子と王族、大臣たちとの親交を深めること。
そしてもう一つは、ガラル王国領内の各地に散らばる要人たちを集め、先代国王ロゾが築いていた負の信頼関係を再び結束させることだった。宴が始まると、ファラクは金で装飾された派手な席へ座るよう促された。
目の前には、見たことも食べたこともないような豪勢な料理が、汚れ一つない皿の上に並べられている。皿は光沢を放ち、料理そのものよりも器の方が高そうに見えるほどだった。
「ガンツの野郎がいたら、一瞬でバレるなこれは」
ファラクは小さく呟いた。
左手のナイフで切り取った赤身の肉を、右手のフォークで刺して口へ運ぶ。礼儀を欠かないよう、できる限り上品に食事を進めているつもりだった。
普段であれば胡座を掻き、テーブルに肘をつき、肉にかぶりつくような食べ方をしている。そんなファラクにとって、この場で美食を心から楽しむ余裕などなかった。
「連れてこないで正解だったわね」
突然、真横から声がした。
ファラクは一瞬だけ驚いたが、すぐに小さく咳払いをして平静を装う。左肩を見るように視線を一瞬だけ移すと、給仕の姿に扮したヴィディアの姿があった。
「案外、様になってるじゃねぇか。賊をやめて給仕にでも転職したらどうだ?」
ファラクはヴィディアの方へ直接目を向けず、目の前のレアステーキを食べながら独り言のように呟いた。
「これでも苦労したんだからね。最初はバレないかヒヤヒヤしてたんだから」
「いざやってみれば楽勝だったろ?」
「ええ、まあね。貴方の言う通り、この国は冷めてる」
冷めている。ヴィディアの言い方は、妙に的を射ていた。
この城に住む王族や上官たちは、兵士を兵士として、給仕を給仕としてしか見ていない。入城してすぐにヴィディアへ調べさせたところ、驚くことに雇用されている者たちの名簿すら存在していなかった。
よほど城内の雇用環境が悪く、逃げ出す者が多いのか。あるいは、先代王ロゾが下々の者たちを個人として見ていなかったのか。どちらにせよ、潜り込む側としては都合がよかった。
「ガスト王子。こちらは我が国の東に位置するアルファス領で育てられた、モーガン牛のレアステーキでございます。他にもお聞きになりたいお料理がございましたら、私めにお申し付けください」
聞いてもいない料理の詳細を流暢に説明すると、ヴィディアは深々と頭を下げ、ファラクのそばを離れた。
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
だが、彼女がそうした理由はすぐに分かった。
「お食事中、申し訳ありません、殿下」
「さっき挨拶してきた文官だな。確か名はタバフだったか?」
「私めの名など覚えていてくださり、光栄でございます」
宴が始まってから、すでに一時間ほど経っていた。十分前までは食事に手をつける暇もないほど、大臣や文官たちが間髪入れずにやって来ては、大層な言葉を並べて挨拶してきた。
目の前にいるタバフも、そのうちの一人だった。
だが、今さら何の用なのか。
「で、何の用だ?」
「はっ。単刀直入にお聞きします。殿下は、以前この城にお住まいであった頃の記憶をお持ちでしょうか」
「幼少の頃とはいえ、一度住んでいた城だ。鮮明ではないが、覚えている」
鮮明ではない。つまり、はっきりとは覚えていない。ファラクがそう口にした瞬間、タバフの口角が僅かに吊り上がった。期待していた言葉だったのか。それとも、そう答えるように仕向けた問いだったのか。あるいは、その両方か。いずれにせよ、次にタバフがどんな言葉を用意しているのか、想像するのは容易だった。
「それでは、城内の詳細を理解していただくため、後ほど私がご案内させていただきます」
「ほう? 大臣自らか?」
「もちろんですとも。私は先々代国王の頃より側近を任されておりました。城の内部は全て把握しておりますゆえ、ぜひともお任せください」
純粋な善意。
であるはずがない。この男からは嫌な匂いがする。権力者特有の、腐った匂いだ。今すぐにでもエルザの前に突き出してやりたいところではあったが、ここで拒む理由もない。
「分かった。お前に任せる」
「はっ。このタバフにお任せくだされ」
「分かったら下がれ。形とはいえ、これだけの美食を揃えられたら、さすがに堪能したくなるからな」
離れた場所で、ヴィディアが小さく頷いている。
どうやら彼女も、この老臣にきな臭いものを感じ取っているらしい。悪政王の側近。どんな秘密が飛び出してくるのか。
「……ん? そういえば」
気づくのが遅すぎたくらいだった。やけに文官たちの姿が多い。
もちろん、王国である以上、城内に十人二十人の文官がいてもおかしくはない。だが、それにしても軍官の姿が見当たらない。ファラクの護衛として同行していた兵士たちがいないのはまだ分かる。だが、騎士団長や副騎士団長の姿まで見えないのはどういうことか。
「おい、そこの給仕」
呼んだのはヴィディアではない。
顔立ちが整い、目鼻立ちのはっきりした若い給仕の女だった。魚料理を近くの台に配膳していた彼女は、ファラクに呼ばれると、慌てたように駆け寄ってくる。
「な、なんでしょうか?」
「王城にいる連中はこれで全員か? 帰還した際の出迎えでは、もう少し人数がいた気がするのだが」
怯え――ではない。
彼女はなぜか、こちらを見ながら頬を染めていた。ファラクが再び見つめ返すと、彼女は声を跳ねさせながらも、正確な情報を口にした。この国では、騎士団長らの立場は成り立ての文官よりも低い。
儀式では護衛のため参列していたが、祝宴の場や行事の際には参加せず、城門付近と城下町の警備に当たっているのだという。そして、王弟である騎士団長カルロ。その娘であり、王位継承候補に名が上がるほどの才女、エリナ。この二人の存在を給仕から聞いた時、ファラクの頭に一つの妙案が浮かんだ。
「名前は?」
「……え?」
「名前を聞いている」
「あ、はい。リオナと申しますっ」
タバフが隣にいる老人と話し込んでいるのを見計らい、ファラクはリオナの小刻みに震える肩へ優しく手を添えた。
「一つ頼みがある。見事やってのけたら、何でも願いを叶えてやる」
ヴィディアへ視線を送りながら、ファラクは彼女の耳元へ甘く囁いた。




