第3話 王女エリナの憂い
王が崩御する。
それは、一国の歴史が大きく塗り替えられる瞬間だった。
新たに即位する者が明君であれ暗君であれ、それまで続いてきた国の姿は必ず変わる。文化、法律、政治の在り方。王という存在が握るものは、それほどまでに重い。
王位継承の儀は、王が崩御した時にのみ行われる重要な儀式である。
先代の王が遺した伝統と歴史を引き継ぎ、新たな王が国の頂に立つことを内外へ示す。多くの国にとって、それは避けて通ることのできない節目だった。
そして今、古くから悪政国家と呼ばれてきたガラル王国でも、その儀式が行われようとしていた。先代国王ロゾが、原因不明の病によって崩御したのである。
悪政王とまで呼ばれた王が亡くなった。
その報せが国中へ広まった時、民の多くは心のどこかで願ったはずだった。これでようやく、この国にも希望の光が差し込むのではないかと。少なくとも、エリナ・リファイトスはそう願っていた。
先代国王ロゾの遺書が、彼の自室から見つかるまでは。
そして今日、ついに王位継承の儀を迎える。
王都を離れ、南端の外れにある森で別居していたロゾの一人息子――ガスト・リファイトス王子が、城へ帰還する日だった。
◇◆◇
「姉さん、もうすぐ王子が到着するって」
「……そう」
「姉さん?」
「分かったから。すぐに行くと伝えて」
背中に槍を背負った青年兵士が、庭園で花を眺めていたエリナへ声を掛けた。
だが、返ってきた反応は冷たい。まるで厄介事を遠ざけようとするような声音だった。
青年兵士――ベルは困ったように眉を下げる。
「お願いだから、顔だけは見せてよ? じゃないと父上の面子まで潰れちゃうからさ」
ベルは屈んでいるエリナの背中にそっと手を添えた。
姉の苛立ちも、失望も、分からないわけではない。それでも、今は感情のままに動ける状況ではなかった。王子の帰還は、王城中の目が集まる場面だ。そこでエリナが姿を見せなければ、余計な火種になる。
「家族のことは、俺に任せて」
そう短く告げると、ベルは踵を返し、その場を立ち去った。
城内へ続く扉が閉まる音が庭園に響く。エリナはしばらく動かなかった。やがて、左手で触れていた花の花弁を握り潰すように散らし、小さく唇を噛み締める。
「この国に、どこまで迷惑をかければ気が済むのよ、ロゾ……!」
ロゾが死ねば、次の王位は実弟であるカルロ・リファイトスへ継承される。
エリナはそう確信していた。
ガラル王国には明確な王位継承順位が存在しない。先代の王が指名した王族が次代の王となる仕組みだ。ただし、指名を行わずに王が崩御した場合は、先代王の兄弟が王位を継承する。
今回の場合、ロゾの遺書が見つかるまでは、エリナの父であるカルロ・リファイトスが王位を継ぐはずだった。誰よりも国民を想い、この国の行く末を憂いていたエリナにとって、ロゾの死はまさしく神が与えた救いのように思えた。
だからこそ、衝撃は大きかった。
ロゾに仕えていた者の大半は、彼の自己中心的な政治を支持していた。だがその一方で、国民の権利を守るため、腹の中に別の思惑を抱えていた者も少なくない。仮に誰かがロゾに毒を盛ったとしても、この国を変える絶好の機会を逃すつもりはなかった。
必ずや明君となる父へ王位を継承させる。そう願っていた。だが、その願いはロゾの遺書によって踏みにじられた。悪政王ロゾの息子であるガスト・リファイトス。
あの王子は、間違いなく父親の気質を受け継いでいる。国から気に入った女を複数連れ、所在も分からない場所へ出ていくなどという馬鹿げた行動を、当然のようにしてのけた愚かな王子。幼い頃に少しだけ顔を合わせたことがあった。
その時、エリナは心底思った。二度と、あの男には会いたくないと。
「いよいよ帰って来るのね。あいつが今日、この国に」
聞けば、まだ十八歳だという。エリナより二つも年下の男が王位を継承する。その異常な現実に、頭が痛くなった。
「年も若く、王としての才覚も熟していない。しばらくはお父様に摂政として国政を担ってもらうよう進言する……?」
だが、すぐに首を横へ振る。
ロゾの遺言がある以上、エリナの進言だけで覆るとは思えない。しかもカルロは騎士団長の任を受けている。軍と政、その両方を一人で担うなど、国の運営を考えればあまりにも無理がある。
「……もう、詰んでいるのね」
そもそも、先代国王の遺言が見つかった時点で、エリナたちに打てる手はほとんど残されていなかった。ようやく明君の治世が始まり、ガラルが蘇る。そう信じかけた矢先に、この顛末である。エリナは力なく立ち上がった。
自分が生きている間に、ガラルへ本当の平和が訪れることはないのかもしれない。そんな暗い予感を胸に抱えながら、エリナは王子が到着する城門へ向かって歩き始めた。
◇◆◇
午後の陽がいくらか薄れ、辺りに夕暮れの気配が漂い始めた頃。
王子を守る護衛兵たちに囲まれた馬車の行列が、城門前で停止した。
馬車を降りて少し歩いた先には、城門の入り口から城の玄関まで、丁寧に敷かれたレッドカーペットが伸びている。その両脇には、文官や兵士たちが整然と立ち並んでいた。その中には、騎士団長であるカルロの姿も、ベルの姿もある。
「エリナ様は並ばれないので?」
ロゾ王に仕えていた側近の一人が、陰から王子の到着を眺めていたエリナへ耳打ちした。
「エリナは誰かに仕えている身ではありませんから。貴方こそ、あの輪に入ってきてはいかがですか」
エリナが生まれる以前から先代王へ忠誠を誓ってきたこの男は、間違いなく新王にも取り入ろうとするはずだった。今は静観して、後ほど個人的に恭順の意を示すつもりなのだろう。そう考えたエリナへ、男は薄く笑った。
「何がとは申しませんが、全ては徒労に終わります。ロゾ様は、貴方が腹に一物を抱えていたことをご存知でした」
「……タバフ殿が何を仰っているのか、エリナには分かりません」
「ならば、そのまま愚鈍な姫でいてくだされ。その方が、我々としても助かります」
高級な衣服を纏ったタバフは、腰を折り、禿げ上がった頭を見せながら深々と礼をした。そして、エリナの言葉通り、上官たちが集う場所へ歩き去っていく。
「腹に一物ね。自分のことを棚に上げて、よく言うわ」
エリナは小さく吐き捨てた。もういっそ王子の顔を見ることなく、この苛立ちを抱えたまま自室へ戻ってしまおうか。そんな考えが頭をよぎった、その時だった。
一台の馬車が城門を通過し、城内の敷地へと入ってきた。
その馬車を引く馬は黒色だった。
かつてロゾ王が愛でていた愛馬である。遠出をする時には、必ずその馬に馬車を引かせていた。
誰が見ても、中に乗っている人物は一目瞭然だった。王族、大臣、兵士たちの視線が一斉に馬車へ注がれる。
護衛兵が扉を開ける。
そして、その男は姿を現した。




