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04. 女神と鬼軍曹と人事部長


翌日。開発二課のオフィス。

昨日の騒動が嘘のように、いつもの朝が始まっていた。


「佐藤さん、噂、聞きましたよ! 今日来る新人、『魔法使い』らしいじゃないですか!」


ゴシップ好きの後輩、田中がニヤニヤしながら寄ってきた。


「しかも、すごくキレイな人だって! 教育係なんて、役得ですねぇ!」


「役得……か……。代わって欲しいくらいだよ……」


佐藤は、遠い目をして冷めたコーヒーを(すす)る。


「……昨日のアラートなんだけど……。実は、彼女が『エンターキー』を叩いた瞬間、エラーが消えて……」


「えー? なんですか、それ。魔法って言うか……オカルトですか?」


その時、フロアの奥から怒声が飛んだ。


「寝ぼけてんのか佐藤!!! くだらねぇ事言ってる暇があったらログを見ろ! 昨日のゲートウェイの復旧、ありゃどう見ても異常だ!」


開発二課の鬼軍曹にして最終防衛ライン。主任エンジニアの、黒川(とおる)だ。


あの事件を受け一晩中、ログを解析していたのだろう。顔には隠しきれない疲労が滲んでいるが、モニターを睨む眼光だけは異様に鋭い。無造作にまくり上げた袖からは、彼のストイックな仕事ぶりを体現するかのような、無駄な肉のない引き締まった前腕が覗いている。


彼は最新のフレームワークよりも、泥臭いデバッグと自らの経験則を信じる、「現場の化身」のような男だった。


「セッションテーブルが一瞬で蒸発してんだぞ!? 帯域制御(QoS)を無視して突っ込んできて、挙句、痕跡も残さず『物理層』から掻き消えてやがる!」


黒川はモニターを指差し、佐藤たちに噛みつくように叫んだ。


「それを『なんか直りました』で済むと思ってんのか! ロードバランサのログ洗って、前後5分のトランザクション特定しろ! なにがオカルトだ、データの不整合が起きてたら、始末書じゃ済まねぇぞ!!」


「すっ、すみません黒川さん! すぐ確認します!」


佐藤が悲鳴を上げ、田中が自席へ逃げ帰る。 その殺伐とした怒声の余韻(よいん)を遮るように、オフィスの重いドアが開いた。


「全員、手を止めてくれ! 注目! ……新しい仲間を紹介する!」


佐々木課長が入ってくる。なぜか額にはじっとりと脂汗が浮かび、声もわずかに上擦っていた。


キーボードを叩く乱暴な打鍵音。空調とサーバーのファンの音。

開発二課に充満していた「現場のノイズ」が、一人の女性が足を踏み入れた瞬間、時が止まったかのようにピタリと止んだ。


―― カッ、カッ……。


静寂を切り裂く、規則正しいヒールの音。


薄暗く乱雑なフロアの中で、彼女の周りだけ埃一つ舞っていない。

まるでそこだけ、別次元の清浄な空気が流れているかのような錯覚をおぼえる。


モニターにかじり付いていたエンジニアたちが、無意識に猫背を伸ばす。

何人かは机の上の惨状を隠そうと、ゴミと書類を慌てて引き出しの中に押し込んだ。


「芽上結衣です。よろしくお願いいたします」


不自然なほどクリアな透き通った声が響き、彼女は静かに一礼した。


定規で測ったかのようにブレのない完璧な角度。

髪の一筋すら揺らさず、ピタリと静止する。


静寂の中、結衣は顔を上げた。

左右対称の完璧な微笑みを浮かべてフロア全体を見渡す。


――瞬時に、その澄み切った瞳の奥で、高速の解析処理が走った。


彼女の視界に、社員たちの『生体波形(バイタルデータ)』が映し出される。

その大部分は、焦燥や疲労といった「負の要素」によって乱れ、悲鳴のような不協和音を奏でている。


中でも、ひとりの男――黒川の波形は異様だった。 膨張と収縮を繰り返し、彼女の解析を乱すほどの攻撃的なノイズを放っている。


結衣の眉が、ほんのわずか、憂うように寄せられた。


(ここは深刻な不調和(バグ)の巣窟ですね……。ですが、問題ありません )


結衣は再び、一分の隙もない、穏やかな微笑を浮かべた。

その瞳は一点の曇りもなく、純粋な論理の色に澄み渡っている。


この混沌とした職場こそが、今の彼女に必要な場所。

人間を理解し、世界を調律するための、格好のサンプルだ。


結衣の視線の先では、黒川が不快そうに舌打ちをし、佐藤は辛そうに胃を押さえている。


『―― その不具合、私が、完璧にデバッグして差し上げます 』


波乱の予感と共に、女神の「お仕事」が、今、幕を開けた。





同じ頃。

人事部長室では、野村がモニターに向かい、震える指でキーボードを叩いていた。


検索エンジンに打ち込まれた、『芽上結衣』の名前。

ヒット件数、ゼロ。


学歴、前職、SNS、履歴書に記載された居住地 ―― なにを検索しても、彼女に繋がる情報は出てこなかった。


「……身元詐称か……? いや、彼女のマイナンバーカードのコピーは、確かに手元にある。行政にも正常に受理され、偽造の可能性はない。だが……」


「…………年金記録、雇用保険、全てが空白……何一つ、実態がない」


野村は、掠れた声で呟いた。


「……彼女は、一体、何者なんだ……!? い、胃が……」


自分は、とんでもない存在を招き入れてしまった。

反射的に、いつもの胃薬を口に放り込もうとし――野村の指が止まる。


(……温かい)


握手の瞬間の、あの奇妙な衝撃。

長年自分を苛んできた「胃の不具合」が、嘘のように消えている。


野村は手の中の薬をじっと見つめ、ゆっくりとポケットに戻した。


「……芽上、結衣。……芽上……めがみ、か……」


次に顔を上げた時、野村の顔から迷いは消え去っていた。

特権権限を叩き、彼女のステータスを『秘匿・調査完了』へ書き換える。


「これで、君はうちの社員……一蓮托生だ」


モニターに映る涼し気な彼女の写真に、野村は困惑半分で語り掛けた。


誰に言う必要もないだろう。

余りにも、馬鹿げた話だ。荒唐無稽(こうとうむけいな)な妄想に過ぎない。


「ようこそ、我が社へ。期待しているよ。―― 女神サマ」


野村は小さく呟くと、晴れやかに微笑んだ。


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