31. 天使の仮面
――数式、コード、アーキテクチャ。
技術というものは、どこまでも平等で美しい。
性別も、年齢も、見た目の良し悪しも関係ない。
完璧な論理を提示すれば、必ず圧倒的な結果が返ってくる。
純粋で、クリアで、ノイズのない世界。あの頃の彼女は、その美しさに魅せられていた。
だから当然――。
現実の世界も、同じだと思っていたのだ。
◇
―― 数年前、デジタルハーモニー社の新人研修フロア。
頭を抱える同期の男性社員のPC画面を覗き込み、愛莉は横から手を伸ばしてカタカタと数秒だけキーボードを叩いた。
「マジかよ…… 嘘だろ、3日間徹夜しても直らなかったエラーが一瞬で……!」
「3日も? Pub/Subのイベント発火とDBの更新が非同期になってただけじゃないの」
愛莉は至極当然のように答えた。
「冪等性を見ればすぐわかるでしょ?……あ、この多重ループ……気持ち悪い、O(1)で書けるじゃない」
「べ、べき……? ちょっ、俺のコードを勝手に――」
「ほら、キレイになった。 30倍は速くなったはずよ」
同期の焦る声など、彼女の耳には全く入っていなかった。ただ純粋に、綺麗に整理されたコードをキラキラした目で見つめている。
やがて、くるりと振り返り、とびきり無邪気な笑顔を向けた。
「じゃあね、また行き詰ったら声かけて。私がキレイに直してあげるから!」
自分の技術が誰かの役に立ったと純粋に喜び、愛莉は軽やかな足取りで去っていく。
その無防備な背中を、残された同期が忌々しげに睨みつけていることなど――当時の彼女は、微塵も気づいていなかった。
◇
「……以上のロジックにより、全社的な生産性を飛躍的に向上させることができます! ご清聴ありがとうございました!」
その年の、新人成果報告会。
スクリーンには、愛莉が組み上げた緻密で美しいアーキテクチャ図が映し出されている。
努力に対する正当な賞賛を信じて疑わず、愛莉は期待でキラキラと輝く瞳を審査員席に向けた。
しかし――。
審査員の磯山事業部長は、スクリーンでも手元の資料でもなく、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながら愛莉の顔とスタイルを舐め回すように見ていた。
「ありがとう、森田くん。非常に『華やか』なプレゼンだったよ」
「あっ……ありがとうございます。このシミュレーションによる効果検証の精度は――」
「シミュレーション、ね。……いやはや。新人にしてはずいぶんと『本格的』だな」
愛莉の言葉を遮り、手元の資料をパラパラとめくりながら磯山が言う。
「君は、古井くんのところ――クラウド推進部の配属か。なるほど、噂通りだ」
「……噂……ありがとうございます……っ」
愛莉が頬を染めて嬉しそうに微笑むと、磯山は隣に座る古井を見て苦笑した。
「古井くん。君のところの先輩たちは、随分と彼女に入れ込んでいるようだね」
「……えっ?」
「まったく、お恥ずかしい。ですが、若い女性がいると、彼等も俄然やる気が出るようでして――『指導』が行き過ぎたようですな」
古井が愛想笑いを浮かべながら同調する。
「……『指導』?――これは私が――っ」
愛莉の必死な反論を、古井が「はいはい」と笑顔で手で制した。
「いやいや、森田くん。責めているわけじゃない。有識者を上手に頼ることも、立派な仕事のやり方だからね。部の雰囲気も明るくなって、助かっているよ」
会議室に、どっと『和やか』な笑いが起きた。 同期の男子たちも、愛莉をバカにするような、見下すような薄ら笑いを浮かべている。
「頼ってなんて……! これは私一人で、ゼロから組んだロジックです……っ! 資料の11ページを……コードの記述を見てください!一からすべて、説明を……っ!」
必死に食い下がる愛莉。しかし、役員たちは誰一人として資料を開こうともしない。ただ弱ったなという苦笑いを向けるだけだった。
「……話、を……っ……」
言葉の通じない悔しさと苛立ちに、愛莉の瞳にじわりと涙が滲む。 慌てて顔を伏せた愛莉を見て、磯山と古井はため息混じりに肩を竦めた。
「やれやれ……。質疑はここまでにしよう、席に戻り給え」
「まったく、女性はこれだから……ゴホン、いや失礼」
愛莉は、俯いたままギリッと、唇を噛み破るほど強く噛み締めた。
◇
誰もいない給湯室。 シンクに両手をつき、愛莉は音もなく涙をこぼしていた。悔しさで唇を噛み締め、小刻みに肩を震わせる。
「よぉ、森田! 終わったのか。……なんだ、泣いてるのか?」
ビクッと肩を揺らし、慌てて涙を拭う。振り返ると、数枚の資料を持った高橋が、悪意の欠片もない能天気な笑顔で立っていた。
「役員たちに詰められたんだって? まあ気にするなよ、新人の女の子には、ちょっと荷が重かったかもな!」
「……高橋、さん」
「そんな凹むなよ。ほら、今日の俺の企画会議の資料、特別に見せてやるよ! 俺みたいな『エース』の作り方を見て学べば、次からは上手くやれるさ!」
高橋が、先輩風を吹かせて自信満々に資料を手渡してくる。 愛莉は赤く腫れた目でそれを受け取った。視線を落とした先にあるのは――数年前の古いトレンド、スカスカの構成、無駄だらけのロジックが並んだ、凡庸な紙の束だった。
――矛盾だらけの、ただのゴミ。 これが、この会社のエース。
資料から目を上げ、目の前で「後輩に指導してやった」と満足げに笑う高橋の顔を見る。 ――その瞬間。 愛莉の脳内で、バラバラだったすべての事象が繋がり、カチリと音がした。
――ああ、そうか。私は「ミス」をしていた。
愛莉の目から、すっと温度が消え失せる。
会社というゲームのルールを、根本からはき違えていた。美しい数式を解くパズルなどではない。これは、そう――『ゴミ集め』ゲームだったのだ。
愛莉は濡れた睫毛を瞬かせ、ふっと顔を上げた。 そこに浮かんでいたのは、怒りでも悲しみでもない。今日一番の、とびきり無邪気で可憐な笑顔だった。
「……わぁっ! 高橋さん、すごいです……!」
「お、おう?」
「このロジック、私全然思いつきませんでした! やっぱりエースの方って、全然違うんですね……! 尊敬しますっ!」
「ははっ、だろぉ? お前、案外見込みがあるな!」
気持ちよく笑う高橋に、「ありがとうございますっ♡」と無邪気に頷きながら、愛莉は心の中で静かに宣言した。
――もう、間違えない。
ルールさえ分かれば、私は誰よりも巧くやれる。
汚いルールに泣く必要はない。
盤面ごと奪い取って、私に都合の良いロジックへ書き換えてやればいいだけだ―― 。
愛莉がまとった『天使の仮面』は、この日を境に二度と外れることはなかった。
◇
そして現在。国プロ入札に向けた『実機連動デモ』の準備が進む、クラウド推進部のフロア。 高橋が、スーツ姿のKAGÜ担当者を愛想よく見送っていた。
「いやぁ! 聞きましたよ、高橋さん! メタバース・コマースですか! 夢がありますねぇ。やはり女性の考えることは違いますね!」
「……ええ。うちの優秀な若手が、頑張ってくれまして」
高橋はピクッと眉をひきつらせたが、すぐに爽やかな笑顔を作って答えた。
「ああ、ご依頼いただいていたロボットのスペック表です! 一部、古い機種と新しい機種が混在して稼働しているので、制御プロトコルは必ずこちらの……『古い機種』に合わせてください」
「はい。確かに受け取りました。わざわざありがとうございます」
担当者を見送った後、高橋は誰もいないことを確認し、手元の2枚のスペック表を見比べた。
愛想笑いを消すと、忌々しげに舌打ちをした。
「……チッ、調子に乗りやがって。まぐれ当たりの小娘が」
高橋は『古い機種の仕様書』だけを意図的に抜き取り、迷いなくゴミ箱へポイッと捨てた。
そこへ、愛莉が小走りでやってくる。
「あ、高橋さーん! KAGÜの方、いらっしゃってました?」
「――森田くんか。ああ、『最新のスペック表』を預かってるよ。これが必要なんだろう?」
高橋は瞬時に「頼れる先輩」の顔を作り、『新しい機種の仕様書』だけを愛莉に手渡した。
「はい! 幹部の皆様とお話してたら遅れちゃって……ありがとうございますぅ♡」
「……そうかい。『魔法』も結構だが背伸びし過ぎじゃないのかな。もう少し足元に気を付け給えよ」
「足元……ですかぁ?」
愛莉はきょとんと小首を傾げた。
「じゃあ……デモの日はもっと低いヒールにします! アドバイスありがとうございます♡」
その無邪気な返しに、高橋はピクッとこめかみを引きつらせた。 「……ふん。せいぜい、がんばれよ」 苛立ちを隠すように背を向け、足早に去っていく。
(……ふふ。相変わらず、面白いくらい底の浅い人ね)
愛莉は、受け取ったファイルで口元を隠し、嘲笑を浮かべた。
下等な人間が吠えたところで痛くもかゆくもない。
だが、手にしたそのファイルこそが、彼女の完璧な盤面を崩壊させる罠であるということに、彼女が気付くことはなかった。




