29. 計算という名の『魔法』
――事の発端は、数日前に遡る。
その日、大会議室ではクラウド推進部主催のAIコンペティションの最終結果発表が行われていた。
割れんばかりの拍手の中、スコアランキングの頂点に輝いたのは――。
森田愛莉の開発したAI『アテナ』だった。
「ええっ……!? わ、私が……1位だなんて!」
愛莉は両手で口元を覆い、信じられないというように肩を震わせた。
「……いやぁ……今回はしてやられたな」
隣で拍手を送るのは、クラウド推進部の高橋だ。優勝と目されていた彼の笑顔は、完全に引きつっていた。
「同じデータセットでここまで差が出るとはね。乱数の妙というか……まぐれ当たりにしても、すごいよ」
「ありがとうございますぅ! きっとぉ……高橋さんのご指導のおかげですねっ♡」
愛莉は上目遣いで、嬉しそうに小首を傾げてみせた。
「素晴らしい成果だ。森田くん、この『アテナ』を使って、何か具体的なビジョンや企画はあるかね?」
満足げに頷く社長の問いかけに、愛莉はマイクを両手でギュッと握り締める。
「はいっ、もちろんです! 私……アテナを使って、世界にとびっきりの魔法をかけたいんです♡」
──魔法。
その言葉に、一瞬、会議室の空気が止まる。
やがて、役員たちが「ははっ、夢があるな」「女性らしい感性だ」と目を細めた。
温かな笑い声に包まれた会議室で、愛莉ははにかんで微笑む。
だが、その瞳の奥では、次の一手を打つための冷徹な計算がすでに走り始めていた。
◇
―― そして、現在。
上層部を完全に味方につけた愛莉は、今や堂々と開発二課のフロアを侵食していた。
「うわっ、すげぇ! 何もしてないのに勝手に部屋が出来上がっていくぞ!」
フロア中央に鎮座する大型モニターは愛莉が持ち込んだものだ。画面に映し出される超高精細な『3Dシミュレータ』に、若手たちから感嘆の声が上がった。
若手エンジニアが手元のデジタルカタログを見つめる。すると、モニター上部のカメラが彼の視線や瞳孔の動きを検知し、画面内の仮想ロボットが次々と最適な家具を配置していく。その滑らかで未来的な挙動に、フロアは一気に沸き立った。
「これ、KAGÜの次世代ラボで作ってたやつだよな!? 一体どうなってんだ……!」
「ふふっ、これはね……アテナの魔法よ♡」
若手たちに囲まれた愛莉が、得意げに微笑んだ。
「ラボよりもっとすごいの! アテナが、みんなの『気持ち』を完璧に汲み取ってくれるんだから♡」
「マジかよ! これ実機と繋いだら、完全にSF映画の世界じゃないか!」
その喧騒から少し離れたフロアの片隅で、黒川と結衣は黙々と手を動かしていた。
愛莉たちのシミュレータに場所を譲るため、旧システムのホコリを被った太いケーブルや物理ルーターを、ダンボールに詰めているのだ。
「……やれやれ。ここも随分と侵食されちまったな」
黒川はガムテープを引きちぎり、不機嫌に呟いた。
「『クロスアテナプロジェクト』か……。物理環境をAIで最適化する。幹部たちが飛びつきそうな、絵にかいたようなDXシナリオだ」
「ユーザの視線と瞳孔――生体データから嗜好を推定する仕組みですね。ですが、あれほどの推論精度を出すには……裏でX-COREの実データを取り込み、ターゲット層の購買傾向を学習させたのでしょう」
「……俺に懐いてきたのは、X-COREのデータを集めるためか。ったく、よくやるぜ」
「それに、あのシミュレータも……KAGÜの次世代ラボとの連携は、黒川さんが彼らと築いてきた信頼関係があってこそのもの。私は――彼女のやり方に賛同できません。合理的ですが、秩序に反しています」
黒川はケーブルを束ねる手を止め、真剣な顔の結衣を少し驚いたように見つめた。だが、すぐに照れくさそうに目を逸らし、モニターの前で騒ぐ若手たちへ視線をやる。
「……別に構わねぇよ。それで会社が儲かるならたいしたもんだ。あいつらも楽しそうだしな」
「時期尚早です。仮想空間と現実の誤差……それを埋めるのは容易ではありません。彼女の構想は、幾重もの嘘で塗り固められた虚構に過ぎません」
「まぁ、何も今日明日に実用化しようってんじゃねぇだろ。人間には『夢』が必要なんだよ。今はハリボテだったとしても、いつかどうにかなる」
結衣はわずかに目を瞬かせ、黒川の横顔を見つめた。 その真っ直ぐな視線に、黒川は小さく肩を竦めた。
「……さて、と。俺は、どうすっかな。そろそろ潮時かもな。異動か、転職か……」
「それも一つの選択です。黒川さんのスキルセットなら、どのような環境でも即戦力でしょう」
「……へっ、なら配送現場で、トラックでも転がすか」
「承知しました。では、私も大型免許のマニュアルをインプットしておきます」
「は?」
真顔で即答する結衣に、黒川がポカンと口を開ける。結衣は瞬き一つせず、黒川を真っ直ぐに見つめ返した。
「ご一緒します。あなたがいなければ……ここにいる理由がありませんから」
「……バ、バカ! 何言って……ていうか、冗談に決まってんだろ!」
黒川の顔が一気に赤く染まる。
「いいからお前は自分の仕事――」
「うふふ。何のお話ですか? とっても楽しそうですね♡」
二人の間にスッと割り込んできたのは、森田愛莉だ。その手には、薄いファイルが握られている。
「あ、愛莉ちゃん……!」
「あのぉ、黒川さぁん♡ このAPI仕様書のまとめ、お願いしてもいいですかぁ? 」
「いや、それは自分で……」
「でもぉ、私こういう難しいのホント苦手でぇ……あら? 黒川さん、どうしたんですか? お顔がとっても赤――」
「わ、分かった! 俺に任しとけ!」
図星を突かれそうになった黒川は、慌てて愛莉の言葉を遮り、ファイルをひったくった。
「わぁ、いいんですかぁ?」
「し、しかたねぇな……! やってやるから、早く仕事に戻れ!」
「もぉ、黒川さんったら照れ屋さんなんですからぁ♡」
これ見よがしに、愛莉が黒川の腕へギュッと抱きついてくる。背中に結衣の冷ややかな視線が突き刺さっているのを感じ、黒川は引きつった顔で完全に固まった。
愛莉は離れ際、黒川の背後に立つ結衣とチラリと目を合わせ――挑発するように、スッと目を細めて笑ってみせた。
「じゃあ、お願いしますね♡」
愛莉はそのまま軽やかな足取りで、若手たちの輪へと戻っていった。
「……な、なんだよ。その目は。仕方ねぇだろ、あいつも困ってんだから……」
バツが悪そうに目を逸らす黒川に、結衣は無表情のまま言い放った。
「……虚言です」
「きょ、虚言って……べっ、別に俺はデレてなんか――」
「いえ。あなたの緩み切った表情筋は問題にしていません。森田さんのことです」
結衣は、黒川が持っているファイルをピシッと指差した。
「その程度の仕様書、あの『メタバース構想』のアーキテクチャを設計した人間なら、瞬時に処理できるはずです」
黒川は手元のファイルへと視線を落とした。
「一見、人に頼って頷いているだけに見えますが……すべて彼女の誘導です」
結衣は淡々と言葉を続ける。
「このプロジェクトの技術を掌握しているのは彼女。確かな知見を持っているのに、なぜ『無知』を装うのか……不可解です」
その言葉に、黒川の顔から動揺がスッと消える。
「……確かにな」
黒川は手元のファイルを握りしめ、若手たちと笑い合う愛莉の背中を鋭く見据えた。




