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女神のデバッグ  作者: 円地仁愛
第三章
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26. アドレスホッパー女神


「……もう、こんな時間か」


黒川はタスクバーの数字を睨みつけ、重い溜息をついた。


時刻は、深夜一時を過ぎている。

ログを目で追い、最後にエンターキーを叩き込むと電源を落とした。


安物のオフィスチェアから立ち上がり、凝り固まった首の骨を鳴らした、その時。


――カタ、カタカタ。


少し離れた席から、かすかな打鍵音が聞こえてきた。


「……芽上。まだいたのか。何かトラブルか?」

「いいえ。本日のタスクは完了しています。明日着手予定だったデータ処理を前倒しで――」


言葉の途中で、結衣の体が前方に傾く。


ガシャッ! とキーボードに突っ伏し、彼女はそのままデスクの上に崩れ落ちた。


「……めっ……芽上!?」


黒川は血相を変えて駆け寄った。結衣はキーボードに突っ伏したまま、ピクリとも動かない。


「おい!! どうした!? 大丈夫か、しっかりしろ!!」


黒川が青ざめながら彼女の肩に手をかける。

すると──。


「…………すぅ…………」


規則正しく、静かな寝息が聞こえた。

黒川の動きがピタッと止まる。結衣の顔を覗き込むと、その長い睫毛は安らかに閉じられていた。


「……ね、寝落ち……?」


安堵よりも先に、どっと重い疲労感と呆れが押し寄せてくる。黒川は眉間を強く揉みほぐした。


「……クソッ、心臓止まるかと思っただろーが……。おい、起きろ! 寝るなら帰ってからにしろ!」

「……う……ん……」


黒川が肩を揺さぶると、結衣はカッ!と勢いよく目を見開き、弾かれたように顔を上げた。


「……ッ!?」

「うぉっ!? ビビらせんな!」


頭がぶつかりそうになり、黒川が慌てて一歩下がる。

結衣は信じられないモノでも見たかのように、震える両手を見つめて戦慄していた。


「まさか、寝ていた……!? そんな……! 不可解です。こんなに短周期で活動限界が訪れるなんて……。計算上の連続稼働時間は、約256時間のはず……」

「……まだ寝ぼけてんのかよ」


黒川は深いため息をついた。

「バカなこと言ってないで、さっさと帰って寝ろ。家どこだよ、タクシーつかまえてやる」


「…………家……ですか?」


ピタッ、と。結衣の思考が停止した。


彼女の端正な顔に、かつてないほどの焦りが浮かぶ。人間界の観測と業務の最適化にリソースを全振りした結果、『拠点』を用意するという基本タスクがすっぽり抜け落ちていたのだ。


「芽上?」


訝しむ黒川に対し、結衣は瞬時に「人間」として違和感のない論理武装 (いいわけ)を組み立てた。


「……定住所はありません。ホテル住まい――いわゆる、アドレスホッパーという生活様式です」

「はぁ? ホテル住まい?」


怪訝な顔をする黒川。結衣はとってつけたように「さて、本日の宿泊先を確保しなくては」と呟くと、猛烈な勢いでマウスを操作し始めた。


「オフィスから徒歩圏での最適解は―――ここですね。早速、予約を……」


満足げに頷き、エンターキーに手をかけた瞬間。

背後から画面を覗き込んだ黒川が、ガシッ!! と結衣の右手を力一杯掴んで制止した。


「おい……! なんだそれは!! お前、本気でそこに泊まるつもりか!?」


画面にデカデカと表示されていたのは、『寿町 簡易宿泊所/1泊1,200円(3畳・風呂なし・男女共同)』の文字だった。


「ええ。徒歩圏内で、最安値。コスパ・タイパとも最善の選択です。……黒川さんもいかがですか?タクシーで帰宅されるよりも低コストです」

「……っ、貸せ!! 俺がまともなビジホ押さえてやる!!」


黒川は結衣からマウスを奪い取ると、猛スピードで駅前のビジネスホテルを予約した。結衣は眉間にしわを寄せ、不満げにモニターを見つめる。


「……黒川さん。それではタクシー代と合わせて1万1280円。当初の計画からコストが約940%も跳ね上がります。極めて非合理的な投資判断と言わざるを――」

「うるせえ! ホテル代は俺が払う、タクシー代は深夜残業の経費で落とせ! 行くぞ!!」


有無を言わさず、黒川は結衣の腕を掴んで強引に歩き出した。


「それはコンプライアンス違反です。自由意思の侵害、および物理的強制執行はパワーハラスメントに抵触し――」

「あーもう、わかったわかった! 喋ってないで足動かせ!」


「非合理です」とブツブツ文句を言いながらも、素直についてくるポンコツ女神を引きずりながら、黒川は本日何度目かわからない深いため息をついてオフィスを後にした。



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