25. 鼓動の同期信号
ビルの屋上に、黒川は一人佇んでいた。
吹き付ける潮風が、その髪を乱す。手すりに寄りかかって空を見上げる顔からは、いつもの険しさが消えていた。
背後から、硬いヒールの音が近づいてくる。振り返ると、そこには見慣れた姿があった。
「……こちらでしたか、黒川さん」
結衣は目の前に立つと、一枚のカード――黒川が置いていった社員証――を差し出した。
「処分は『厳重注意』のみ。あなたの勝ちです」
「……そうかよ」
黒川は少しバツが悪そうにカードを受け取り、その古びたプラスチックの感触を確かめた。
ふと顔を上げると、目の前の結衣に視線が止まる。
そこには、いつもの完璧で隙のない女神の姿はなかった。徹夜のせいかブラウスは少しヨレ、髪もわずかに乱れている。だが、その隙だらけの姿が、今までのどんな時よりも人間くさくて――不思議と悪くなかった。
「………芽上」
気がつけば、口をついて出たのは素直な言葉だった。
「……悪かったな。面倒かけた」
結衣はわずかに目を瞬かせ、すぐに姿勢を正した。
「謝罪は不要です。今回の件、論理的に分析しても、あなたが責任を負う合理性は皆無でした。そもそも監査部の指摘は――」
「へいへい。わーったよ」
黒川は苦笑して、結衣の正論を遮った。カードをホルダーに収め、首にかける。
「二度としねぇよ。……これでいいか?」
照れくささを誤魔化すように、黒川が早足で踵を返そうとした――その時。
「……いいえ。よくありません」
「あ?」
足を止めて振り返ると、結衣が静かに黒川を見つめていた。
「佐々木課長の仰る通りですね。……論理は、万能ではないようです」
結衣が一歩、黒川に近づく。 詰められた距離にたじろぐ間もなく、結衣の手が伸び――黒川の手首を、ギュッと掴んだ。
「お、おい……?」
触れ合った肌は、驚くほど熱かった。結衣の掌の熱か、黒川自身の体温か。重なり合った脈動が、ドクドクと直接伝わってくる。
結衣は、その熱を確かめるように、少しだけ指に力を込めた。
「――あなたのその自己犠牲は、褒められたものではありません」
「まあ……そうだろうな」
「ですが、同時に、あなたらしい。是正するべき不具合なのに……私は、それをとても『好ましい』と思うのです」
「…………」
一瞬、馬鹿にされているのかと思った。だが、彼女の瞳は、吸い込まれそうなほど澄んでいて――そして、どこまでも静かだった。
「……なら、」
その真っ直ぐな瞳から、どうしても目を逸らせない。繋がれた手を振り払うことすら忘れて、ポツリと呟く。
「……次は……もう少し上手くやる」
その言葉を聞いた結衣は、ふぅ、と小さく息を吐き出した。張り詰めていた空気が、少しだけ和らぐ。
(……良かった)
結衣の口元が、ふわりと自然にほころんだ。
(―――― 笑った)
黒川の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
「……っ」
(うわ、なんだこれ)
激しい動悸が、警鐘のようにうるさい。さっさと背を向けるべきなのに、どういうわけか身体が言うことを聞かなかった。
(――ああ、クソ)
黒川が引力に抗うことを諦め、短く息を呑んだ――その時。
ボンッ!!!
二人の手の間から、唐突に黒煙が噴き上がった。
「なっ!?!? なんだ!!??」
黒川は、弾かれたようにその場から飛び退いた。 結衣の手のひらから、焦げ臭い煙がモクモクと上がっている。
「……オーバーフローです」
「は?」
煙の向こうで、結衣が真顔で――しかし、どこか満足げに呟いた。
「双方のパルスが共鳴し、計測デバイスの許容値を超えました。……問題ありません。ログは無事です」
結衣が手を開くと、そこには真っ黒に焦げた「何か(超小型センサー)」の残骸があった。
「てっ、てめぇ……!!」
黒川の顔が、羞恥と怒りでさらに赤くなる。
「また何か仕込んでやがったのか! 良い雰囲気だとか思って損したわ!!」
「黒川さんのおかげで貴重なデータが取れました。ありがとうございます」
「データ…!? なんなんだよ、こないだから! なんのデータだよ!?」
「『恋』と『情』。その比較サンプルです」
「こっ……!?」
「……なるほど。ノイズの波形には、明確な差がありますね。早急にこの『バグ』の物理量を定義しなくては」
「ご協力ありがとうございます。……では、お疲れ様でした」
結衣は黒焦げのセンサーをポケットにしまうと、悪びれもせず、ペコリと一礼した。 その顔は、いつもの無表情に戻っていたが――足取りは、来た時よりもずっと軽やかだった。
「ちょ、おい待て! ちゃんと説明しろ!」
「違うからな!? 今のはただの……っ、事故だ!!」
「いいか、そのデータは無効だ!聞いてんのか!?」
「消せ! 今すぐデータも、記憶も、消しやがれぇっ!!」
必死に追いすがる黒川の怒声が、潮風の吹く高い青空に吸い込まれていった。
――――それから、数日後。
度重なる結衣のストーキング・測定行為に、黒川の怒りが限界に達した。 黒川の猛抗議により、結衣に対し「コンプライアンス違反による調査活動の無期限停止」処分が正式に言い渡されたのだった。
◇
──誰もいなくなった、深夜のオフィスビル。
窓が一つだけ光っている。
クラウド推進部。 森田愛莉が、暗い部屋で一人、モニターを見つめていた。
画面には、今回の騒動で黒川が守り抜いた「X-COREとの接続パイプ」の構成図が映っている。
「ふふっ……。黒川さん、ご苦労さま。 おかげで、私の可愛いAI…『アテナ』の接続は維持されたわ」
暗い部屋の中で、愛莉の口角が上がる。
「それどころか……検証サーバーへのバイパスを『事後承認』してくれるなんて。おかげで、誰にも邪魔されない公式な特権 (バックドア)が手に入ったわ」
愛莉の指が、キーボードを滑る。
画面の中では、誰も気づかないシステムの隙間を縫い――深層のデータ領域で、カーソルが明滅している。
「―― 時代遅れのシステムなんて、どうでもいいわ。せいぜい、今のうちに楽しんでおきなさい」
愛莉の瞳に、モニターの光が冷たく反射する。「絶対的な権限」を手に入れた彼女の顔には、確かな優越感が張り付いていた。
「ゲームを支配するのは──この私よ!」
ッターン!!!
乾いた打鍵音が闇に響き、モニターの光が消えた。静まり返った部屋に残されたのは、愛莉の満足げな吐息だけだった。




