24. 査問会
午前9時。横浜の海を見下ろす、ガラス張りの本社ビル15階。
エレベーターを降りた黒川徹は、一度だけ立ち止まり、糊のきいたシャツの襟を正した。
胸ポケットには、昨夜、何度も書き直した「退職願」。
自宅待機中の三日間、肌身離さず持ち歩いていた業務用スマホは、一度も鳴ることはなかった。
(……ま、そんなもんだよな)
長年、X-COREを────会社に根を張る「負の遺産」を背負い続けてきた。その結末が、この不名誉な退職。いかにも自分らしくて笑えてくる。
「……行くか」
廊下の奥に待ち受けているのは、重厚な特別会議室の扉。
そこで、彼のエンジニア人生は終わる。
――はずだった。
会議室まであと十メートル。曲がり角を曲がった瞬間、世界が反転した。
「ッ!?」
死角から飛び出した「白い残像」が、黒川の右手首をミリ単位の狂いもなく捉えた。前進しようとする重心を逆手に取られ、身体があえなく宙を舞う。
ドォンッ!!
美しい放物線を描き、黒川は隣の空き部屋へと無様に放り込まれた。
「……確保完了。座標誤差、ゼロです」
「す、すごい! 瞬殺ですね、芽上さん……! 合気道ですか?」
「物理演算です。最小のベクトル操作で回転モーメントを与えました」
「い、ってぇ……!」
強打した腰をさすりながら、黒川は目を白黒させて顔を上げた。 そこには、仁王立ちする結衣と、どこか申し訳なさそうに、だが素早くドアの鍵を回す佐藤の姿があった。
「てめぇら……! いきなり何しやがる!!」
怒鳴る黒川に対し、結衣は無表情のまま、分厚い資料の束を鼻先に突きつけた。
「なっ――」
「早急に、この『シナリオ』を暗記してください。これを使えば、監査部の主張は瓦解します」
「シナリオ……?」
黒川が顔を上げると、結衣と真直ぐに視線が合う。常に涼やかな彼女の瞳が、今はどこか、熱を帯びて揺らいでいるように見えた。
「あなたが辞めても、システムの品質は低下するだけです。そんな非合理な『責任』の取り方に意味はありません。このデータを提出して、論理的に自己防衛を行うべきです」
「…………」
黒川の喉の奥で、乾いた笑いが漏れた。
(―――― 結局、なんにもわかっちゃいなかったってことか)
自分のちっぽけな意地など、優秀過ぎる『女神サマ』にとっては、計算を乱すノイズでしかない。
少しでも認めてくれてたなんて、そんなのは――都合のいい思い上がりだ。
「時間がありません。黒川さん、急いで……」
結衣がなおも書類を突き出す。
ゆっくりと、黒川の腕が動き――。
バサリッ!!
中身を見ることもなく、その束を手の甲で払い落とした。数十枚の紙片が、冷たい床へと無残に散らばっていく。
「く、黒川さん……!?」
佐藤が困惑したように悲鳴を上げ、結衣がわずかに目を見開く。黒川は、焼け付くような眼光で二人を射抜いたまま、重く吐き捨てた。
「言ったはずだ。全部、俺の責任だってな。俺が腑抜けてた、ただそれだけだ。……だから、これ以上」
ギリッと奥歯を噛み締め、絞り出すように続ける。
「――俺に……無様な真似、さらさせんな」
それは、怒鳴り声ではない。黒川らしくもなく、ひどく静かで――けれど、絶対に譲らないという強さを含んでいた。
佐藤も結衣も返す言葉を失い、口をつぐむ。
静まり返った室内で、散らばった紙片を空調の風が揺らした。
「――やれやれ。今さら何をカッコつけてるんだ」
ため息混じりの声と共に現れたのは、佐々木課長だった。
「『無様』か。最高じゃないか。それがお前のやり方だろう?」
佐々木は拾い上げた資料の埃を払い、黒川に見せた。そこに踊る文字を追い、黒川は目を見張る。
それは、三人が夜を徹して掘り起こし、再構築した「黒川徹の足跡」だった。
ルールすれすれの「特例」や「事後承認」の山。消えていくはずだった十年の記録が、黒川を救うための「証跡」として編み上げられていた。
「……これは……」
予想外の「シナリオ」に、黒川が言葉を失い息を呑む。
「俺はこれを使って戦うぞ。必ずお前を助けてみせる。なぜなら……」
佐々木は真顔になり、高らかに言い放った。
「なぜなら、俺には、あと25年の住宅ローンが残っているからだ!!」
「…………は?」
黒川がポカンと口を開ける。
「お前がいなくなったら二課は回らん! 俺の査定も響く! だから徹底的にあがいて『情状酌量』をもぎ取りに行く! この俺の生活のために!」
「……………課長……」
あまりに世知辛く、情けない理由だ。
だが、それは―――。
黒川の肩から、憑き物が落ちたように力が抜けた。
たまらず顔を覆い、肩を揺らして笑いだす。
「……なんすか、それ。すげー、カッコ悪ィ……」
――その時。黒川のポケットで、スマホが激しく振動した。
画面には『田中』の二文字。
「……田中?」
通話ボタンを押すと同時に、鼓膜を突き破らんばかりの悲鳴が飛び込んでくる。
『く、黒川さんっ!? 昨夜のバッチ処理がエラー吐いてて……! 十時には本番環境のサービスインなのに……!』
スピーカーから漏れる悲鳴に、黒川の顔つきが瞬時に「現場」に戻る。
「……行ってくれるか、黒川」
佐々木が、ニヤリと笑って親指で扉を指した。
「査問会は俺たちが何とかする。お前は来なくていい」
「……そんなわけに、いかないでしょう。俺がいなきゃ、話が――」
「現場の責任はお前が取れ。――お前の責任は、俺が取る。それが『上司』の仕事だ」
佐々木は言いながら、黒川の胸ポケットから「退職願」を抜き取り、乱暴に自分のポケットにねじ込んだ。
「そもそも狙いは『情状酌量』だ。お前みたいな仏頂面が隣にいたら作戦の邪魔だ! 」
「……ッ」
「行け、黒川! 現場を回して来い! 業務命令だ!」
黒川は一瞬驚いた顔をし、それからフッと口角を上げた。
「……わかりましたよ。あんたって人は……。どうなっても、知りませんよ!」
黒川はスマホを耳に押し当てたまま、弾かれたように走り出した。
「――そこで待ってろ、田中! 端末起動しとけ! 俺が着くまで一秒も無駄にするな!」
廊下に響く足音には、もう一切の迷いはなかった。
嵐のように去っていった背中を見送り、佐藤がポツリと呟いた。
「……すごいタイミングでしたね。あの着信、課長の『仕込み』ですか?」
「まさか」
佐々木はとぼけた顔で肩をすくめた。
「数日前から田中が泣きついてきてたから、『この時間なら黒川の電源が入ってるぞ』と助言しただけだ」
佐々木は資料をまとめ上げ、パンッ! と景気よく叩いた。
「現場は黒川が守る。俺たちはあいつの居場所を守る。『ワンチーム』で、俺たちの未来に『コミット』するんだ!」
「……課長、それ、ちょっと古いですよ」
苦笑する佐藤の横で、結衣の口元がほんのわずかに綻んだ。
三人の足音は、運命の審判が待つ特別会議室の扉へと向かっていった。
◇
一方、開発二課。
息を切らして飛び込んできた黒川に、田中が泣きつく。
「く、黒川さん……! よかった、俺、もうどうしたらいいか……っ」
「泣き言を言ってる場合か! 状況を説明しろ!」
顔を上げた田中の情けない声に、黒川の怒声が被さる。 黒川は、混乱の極致にある田中の背後に立ち、モニターに並ぶエラーログを鋭く睨みつけた。
「いいか、俺はIDがねぇ。お前が手を動かせ。俺が後ろで全部教えてやる! ……待てバカ! そこはインデックスを外してからだ!!」
「ひぃっ、すみません!!」
二課のフロアに、久しぶりの「熱」と「罵声」が戻ってきた。泥臭く誠実にシステムと向き合う、彼等の時間がそこにあった。
◇
そして、特別会議室。査問会は佳境を迎えていた。
「……くっ、認めん! 過去の事例がなんだ! 少なくとも降格処分は免れんぞ!」
監査部長が机を叩く。佐々木の額から脂汗が滴る。過去の功績という武器も、状況をひっくり返すには不十分だった。
「査問会は終わりだ! 人事部に勧告を――」
バンッ!!
重い扉が勢いよく開かれた。
「ほ、報告が……! リーガル・ホールド対象の開封結果です!」
情シス部員が駆け込み、タブレットを掲げた。
「転送されたのは、すべて無意味な文字列……『ダミーデータ』でした! 実害、ゼロです!!」
「な、なんだと……!?」
監査部長がタブレットをひったくる。そこに表示されているのは、どう見ても無価値なゴミデータの山。スパイ行為などと騒ぎ立てれば組織のメンツが立たないほどに無害だ。
「ぐ、ぬぬぬ……ッ!!」
監査部長が唸り、佐々木が安堵で脱力する。
その喧騒の渦中で、結衣だけがその光景を静かに眺めていた。
(――――これで、百パーセントです)
脳裏を昨夜の記憶が過ぎる。過去のログを遡り、通信記録そのものを「無害なゴミ」へと書き換える――それは、秩序の女神が初めて自らの手で仕込んだ『致命的なバグ』だった。
狼狽する監査部長の背中を見つめ、結衣はそっと自らの額に指先を添えた。
(この介入は、『秩序の理』に反しています。……けれど)
額に残る微かな熱を確かめるように、結衣は愛おしそうに目を細めた。
(この『エラー』こそが、私の正義。――今の私は、ただの芽上結衣ですから)




