23. 感情のパッチ
終電の時間をとうに過ぎた深夜。
「こんな遅くまで、残っていただいて……すみません、芽上さん」
「いいえ。問題ありません」
疲れ切った顔の佐藤と、淡々とキーボードを叩き続ける結衣。 開発二課のフロアには、もう二人しか残っていなかった。
「……いよいよ明日ですね。黒川さんの処分が決まる、査問会……」
佐藤の呟きに、結衣は答えない。ただ無表情のまま、高速で流れるモニターのログを見つめている。
その時、背後で重い扉が開く音がし、佐々木課長が入ってきた。 その腕には、埃を被った分厚いファイルが何冊も抱えられている。
「課長……。お疲れ様です。……どこに行ってたんですか?」
「ああ。野村部長と話してたんだ」
「野村部長と……!?」
佐藤が勢いよく立ち上がる。
(そうだ、その手があった……! 人事の権限を握る野村部長が味方になれば、監査部の告発なんてただの紙切れだ!)
「さすが課長です! 野村部長はなんて!? 黒川さんは、助かるんですか!?」
「いや、ただの世間話だよ」
期待を裏切るように、佐々木は苦笑して首を振った。
「書庫の整理を頼まれてな。地下倉庫に行ってたんだ」
「書類整理!? こんな時に……査問会は明日なんですよ!?」
佐藤は机から身を乗り出した。
「このままじゃ、黒川さんが……! 課長は諦めるつもりなんですか!?」
佐藤の悲痛な叫びに、佐々木は答えなかった。ただ、脇に抱えていた重いファイルを、デスクに投げ出した。
――ドサリ。
埃まみれの表紙には、『特殊承認案件』とマジックで殴り書きされていた。
「あの、これは……?」
「武器だよ。明日の査問会で戦うためのな」
佐々木は、汗まみれの顔を上げると、挑戦的な目でニヤリと笑った。
「過去に現場で起きた、システムトラブルの対応記録だ。この『前例』を使って、今回の件も現場判断の緊急対応として事後承認させる……つまり規定の穴をほじくりだして言い逃れるって事だ」
その言葉に、モニターの光を反射していた結衣の瞳が、わずかに動いた。無言でファイルを手に取り、高速でページをめくる。
だが、すぐに手を止め、眉をひそめた。
視線の先にあるのは、十年前の緊急対応の記録。そこには確かに、情報の持ち出しに対する『事後承認』として、監査部の判が押されていた。
「……状況も時代も違います。監査部がこれを前例として認める確率は……多く見積もっても二十パーセント未満です」
「まあ、これ一冊じゃあな。だが、もう少し勝率は高いはずだぞ」
佐々木がページの一箇所を指差す。
「ここだ。……申請者の名前を見てみろ」
「……?」
結衣と佐藤が、指差された欄を覗き込んだ。そこには、見慣れた乱雑な字で、署名があった。
『申請責任者:黒川 徹』
『承認印:監査部』
「これ……黒川さん!?」
佐藤が素っ頓狂な声を上げる。
「ああ。この『前例』を作ったのは、他ならぬ黒川だ。あいつが昔、他部署のケツを拭くために無茶して作った特例でな。……今じゃ監査部にとっちゃ、掘り返されたくない汚点だろうよ」
「……!」
「これは、ほんの一端だ。書庫には黒川が十年かけて現場を守ってきた歴史……『事後承認』や『特例』の山が眠ってる」
佐々木は、自身のデスクに積み上げられたファイルの山を親指で指した。
「今回も『事後承認の予定だった』と主張する。昔認めた前例を盾にすれば、いきなり懲戒解雇は不当だという空気に持ち込めるはずだ……!」
結衣が、それらのファイルを見つめながら呟く。
「……ルールを捻じ曲げる……ということですか」
「『解釈』を広げる、と言ってくれ。会社は、血の通った人間が動かしてるんだからな」
佐々木はネクタイを少し緩めると、言葉に熱を込めた。
「手伝ってくれ、二人とも。悪いが、徹夜は覚悟しろ。あいつの泥臭い歴史をすべて掘り起こして――二十パーセントの可能性を、強引に百パーセントまで引き上げるんだ!」
結衣は、佐々木の不敵な笑みを静かに見つめていたが、やがて、小さく首を振るとパタンとファイルを閉じた。
「――賛同できません。それは『秩序』に反します。それに、確実性を百パーセントにする方法は……別にあります」
「えっ!?」
佐藤が椅子を鳴らして結衣を凝視する。
「この件の根本原因は、黒川さんでも田中さんでもありません。なすべきは、『真犯人』を特定し、そのログを復元すること……私には、それが可能です」
「ほっ、本当ですか!? じゃあ、すぐにそれを……!」
顔を輝かせる佐藤。だが、結衣は冷水を浴びせるように首を振った。
「――いいえ」
「ええっ!? なんでですか!?」
結衣はかすかに目を伏せ、絞り出すように答えた。
「黒川さんが……それを望まないからです」
その言葉の意味を察し、佐々木は深々とため息をついて頭を抱えた。
「……あのバカ。犯人をかばいやがったのか。……なら、芽上さんの言う通りだな。犯人を突き出したところで、あいつが戻ってくるとは思えない。逆に意地を張って、辞表を叩きつけかねん」
「……はい」
結衣はこめかみを押さえた。まとまらない思考が熱を持ち、指先に伝わってくる。
「私はお手伝いできません。理論の再構築を急がなければなりませんから」
「理論?」
「論理的な『正解』は明らかです。なのに、どうしてもそれを選択できない。このバグさえ修正できれば、すべて解決するはずなのです」
結衣は自分自身に言い聞かせるように、か細い声で告げた。 だが、佐々木は苦笑して、迷える「女神」を静かに見つめた。
「……そいつは無理だな。諦めた方がいい」
その言葉に、結衣がハッとして顔をあげる。
「そのエラーは治らない。いや、治してやって欲しくない。その正体は……あいつの『情』だからな」
「情……?」
小さく呟く結衣の前で、佐々木はゆっくりと視線を落とし、黒川の文字が刻まれたファイルを愛おしそうに撫でた。
「あいつは昔からそうなんだ。――見捨てられないんだよ。仲間も、顧客も……そして、壊れかけたシステムもな」
「…………それは……」
反論が見つからないように言い淀んだ結衣を見て、佐々木が苦笑する。
「非合理的だろ? でも、それがあいつだ。そこに理由なんかない。放っておけない、ただそれだけなんだ。……だから、あいつを救うのに必要なのは『理屈』じゃない。――――『感情』だよ」
「感情……」
「俺たちが、あいつをどうしたいか。それだけでいいんだ。理屈なんて、後付けで勝手に作ればいい」
佐々木の言葉が、結衣の論理回路に演算不能な波紋を広げる。
「後付け」という概念は、原因から結果を導き出す彼女のアルゴリズムには存在しない、禁忌に近い思考だった。
「……そんな、無秩序なことが、許されるはずが……」
「無秩序だが、それが人間だろう? 硬く考えなくていい!」
佐々木はニカッと笑うと、結衣の肩を叩いた。その手の熱が、彼女の完璧な論理に微かなノイズを走らせる。
(理由のないバグを、『感情』で救う……?)
その未知の概念に、結衣の中で疑念と高揚が波紋のように広がっていく。
その時――。
「やらせてください! 僕だって……理屈抜きで、黒川さんを助けたいんです!」
佐藤の叫びが、静まり返ったオフィスを震わせた。その迷いのない背中を見つめ、結衣はそっと自身の額に手を当てた。そこには、黒川が触れた熱が、まだバグのように残っている気がした。
『私が、どうしたいか』
答えは、演算するまでもなかった。結衣はゆっくりと顔を上げ、二人を見た。
「……承知しました。論理を放棄し、判断指標を『感情』に切り替えます」
「ははっ、いいぞ! 徹底的に身内びいきで行こうじゃないか!」
佐々木が、かつての大プロジェクトを率いた時のような力強い号令をかける。
「いいか、心を一つにしろ! 俺たちは『ワンチーム』だ! 朝までに、黒川の歴史をすべて掘り起こすぞ! 」
◇
明け方。佐々木と佐藤が仮眠を取っている寝息が聞こえている。
結衣は、主のいない黒川のデスクの前に立っていた。
使い込まれたキーボード。飲みかけのまま置かれた缶コーヒー。 そこには、確かに彼が戦っていた「熱」が残っている。
足元のダンボールに、そっと手を伸ばす。
引き出したのは、地層の最上層に眠っていた一冊の分厚いファイル。
それは、結衣が書いた、刷新計画書だった。
人間の手には持て余され、保留とされたはずの計画書は、膨大な付箋によって、倍近くの厚みにまで膨らんでいる。ページをめくるたび、大量の赤字の但し書きが、彼女の視界を埋め尽くした。
結衣は、愛おしそうに、その乱暴な文字をなぞった。
(……佐々木課長の作戦。黒川さんの残した、過去の履歴。これらを組み合わせた勝率は……)
(多く見積もっても、六十パーセント。最後の一押しが……足りない)
やがて彼女は手にしたファイルをダンボールに戻すと、黒川の席にそっと座った。その口元には小さな微笑みが浮かんでいる。
「……これは明確なルール違反です。……ですが」
女神としてではなく、ただ一人の人間として、キーボードに手を添える。
「私は……彼の居場所を、守りたい」
結衣の瞳に、静かに、しかし力強い青白い光が灯り始める。
カッ……!
次の瞬間、その指先が爆ぜるように動き出した。モニターから溢れ出した青い光が、静まり返ったフロアの闇を真っ白に塗り潰していく。
光に照らされたその横顔に、かつての静謐さはない。
ただ、画面を射抜くような熱を帯びた瞳だけが、彼女の決意を物語っていた。




