21. セキュリティ・インシデント
エレベーターホールを抜け、開発二課のフロアに近づくと、異様なざわめきが聞こえてきた。
「……なんだ?」
「うちの居室……? 騒がしいですね……」
入り口付近に人だかりができている。
その中心で、怒号が響いていた。
「―― どう責任をとるつもりだ、田中くん!」
「……えっ、あの、僕は……! ただ、黒川さんの画面が動いてたから、消そうとしただけで……!」
状況を確認しようと、黒川の足が速まる。
人垣をかき分けた先には、顔を真っ赤にした監査部長が、縮み上がっている田中に向かって怒鳴り散らしていた。
「とぼけるな! 暗号化された通信ログがこの端末から吐き出されているんだ! 他部署の検証用ストレージに、機密データを流すとは……! 重大なコンプライアンス違反だぞ!」
「違います! 僕は本当に、何が起きてるのか分からなくて……っ!」
「黒川さん……!」
情シスの若手部員が、黒川を見つけて駆け寄ってくる。
「すみません。黒川さんの端末から、クラウド推進部のストレージに向けて異常なデータ通信が検知されまして……ポリシーに基づき、物理遮断させてもらいました」
「あぁ? クラウド推進部……?」
「はい。……今日は、監査部との定例会議で…。居合わせた監査部長が、今すぐ現場を抑えろと……すみません…」
黒川が視線を向けた先では、ハブから引き抜かれたLANケーブルが床に転がり、通信を絶たれたモニターが、エラーログを吐き続けていた。
「――異常なトラフィック? んなわけねぇ、IDSは何も……」
言いかけたところで、数十分前の自分の操作が脳裏に蘇る。
『――監視対象を、テスト環境に切り替えて……』
(……あの時の設定、戻してねぇ……!)
最悪の失策に、黒川の血の気が引いていく。
「黒川! 今、この若手が君の端末を操作しているところを押さえた!」
監査部長が血相を変えて黒川に詰め寄る。
「他部署のストレージへの機密データの不正転送……! 君の端末だ、管理者権限は通っている! 君が田中くんに指示してやらせたのか!?」
「……っ、待ってください! 何かの間違いです! こいつはただ――」
「言い逃れは通用せん! 転送先がピンポイントで指定されていたんだ! 誤操作でデータが飛ぶわけがないだろう!」
田中が、泣きそうな顔で黒川を見る。
「黒川さん……っ。僕、本当に……っ」
「……落ち着け。外部への流出じゃない。転送先が社内なら、まだ……」
なんとか現状を把握しようと、黒川がキーボードに手を伸ばす。その瞬間、監査部長がその腕を乱暴に払いのけた。
「触るな! 証拠隠滅を図るつもりか、この恥さらしが!」
監査部長はそう怒鳴りつけると、背後に控える情シスの若手部員を振り返った。
「おい! この端末は『リーガル・ホールド(証拠保全)』だ! すぐに本体を押収してログを解析しろ! 誰にも指一本触れさせるな!!」
「は、はいッ! ただちに保全作業に入ります!」
「…………ッ!」
黒川は、爪が手のひらに食い込むほど強く拳を握りしめた。
震える田中の背中と、エラーログを吐き続ける無機質なモニター。その黒いコンソール画面に反射して映る自分の顔は、目を背けたくなるほどに無様だった。
(……クソッ、何が起こった。まさか――愛莉ちゃんか……!?)
転送先は、クラウド推進部。昼休み前の件を思えば、この件に森田愛莉が関わっている可能性は高い。ミスか、故意かは、わからない。だが――。
(……いや、そうじゃない。バカか、俺は……!)
愛莉が絡んでいるかなど、今は関係ない。
事態を招いたのは、自分自身だ。油断しきって、この手で「裏口」を開けたまま離席した。そこに弁明の余地はない。
ギリッと奥歯を噛み締め、黒川は顔を上げた。
「とにかく、これは重大なインシデントだ! 実行犯の田中は懲戒委員会に――」
「……待ってください」
怒声の響くフロアに、黒川の静かな、ひどく落ち着いた声が通った。
彼は激昂する部長と、震える田中の間に割って入るように、ゆっくりと一歩を踏み出す。
「IDSを止めたのも、実行環境を晒したままにしたのも、全部俺です。データ転送も……クラウド部との連携テストとして、俺がすべてセットアップしたものです」
「――田中は、俺が動かしっぱなしにした処理を終了させようとしただけだ。関係ありません」
言い切った黒川の背後で、結衣が目を見開く。シン、とフロアが静まり返った。
「……言ったな。事実上の自白だ。現場責任者が意図的にセキュリティを無効化し、データを流出させた。これは重大な背任行為だぞ」
黒川は否定も肯定もせず、ただわずかに目を伏せた。
「黒川……! 調査終了まで、IDカード没収だ! 自宅待機を命じる!」
監査部長が手を差し出す。
黒川は深く息を吐くと、首から提げていた社員証を外し、カタリと乾いた音を立ててデスクの上に置いた。
「……まあ。妥当だな」
その手つきには、ひどく静かで、どこか諦観が漂っていた。
「そんな! 黒川さん、嘘でしょう!? 業務はどうするつもりですか!? 黒川さんがいないと……!」
佐藤が悲鳴のような声を上げる。黒川は足を止め、振り返りざまに佐藤を鼻で笑った。
「……バカ言え。いつの話をしてんだよ」
「え……?」
黒川は、呆気に取られる佐藤と、その背後に立つ結衣へ順に視線を流すと、口の端を少しだけ上げた。
「俺がいなくても、どうにかなる」
――むしろ、いない方がスムーズかもしれない。
喉元まで出かけた本音をどうにか飲み込み、彼はその場を立ち去ろうとする。しかし、一歩を踏み出すより早く、結衣がその前に立ち塞がった。
「黒川さん。その判断は、合理的とは言えません。……いえ、『有害』です」
その瞳は一点の曇りもない。射抜くような視線で彼を見据えている。
「ログは嘘をつきません。あなたが事実を歪めることは、システムの透明性を損なう行為です。それに……」
結衣は声を潜め、黒川だけに聞こえる距離で囁いた。
「このトラフィックの転送先は、クラウド推進部です。誤操作でのアクセスではなく……誰かが、明確な意図をもって実施したと考える方が自然でしょう」
「…………」
「あなたが真にすべきなのは、現場に留まり真相を究明することです。『自己犠牲』では何も解決しません 」
黒川は低く、乾いた声で笑った。
そして、結衣の言葉を遮るように、短く息を吐いた。
「……お前は、ほんっと……。……うるせぇな」
「そういう問題じゃねぇんだよ。……俺が責任者だ。俺の現場で起きたことは、俺の責任。……それだけだ」
黒川はふと、自分の手のひらを見つめた。
この手で、今まで数え切れないほどのバグと戦い、トラブルだらけの現場を守ってきた。
時代に取り残されたままのその手を、一度だけぎゅっと強く握りしめる。
「いいえ、それは違います。転送先のログを解析すれば、必ず……」
なおも食い下がる結衣の眼前に、黒川は拳を突き出した。
反射的に結衣が身構える。
だが、突き出された拳は空中で力を失い――指の背でゆっくりと、優しく彼女の額を小突くだけだった。
トン、と。
いつもの荒々しさは微塵もない、不器用な衝撃が額に伝わる。
「…………っ」
結衣は目を見開き、言葉を失った。
黒川は、静かに、ただ真っ直ぐに彼女を見下ろしている。
彼が何を考えているのか、どんな論理で動いているのか、今の結衣には計算できなかった。
ただ、彼がもう、これ以上何も言わせる気がないことだけは理解できた。
結衣が口を閉ざしたのを見て、黒川はほんのわずかに口角を上げる。
「……あいつらを、頼むわ」
黒川はそれだけ言い残すと、一度も振り返ることなく、開発二課の重い扉の向こうへと消えていった。




