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女神のデバッグ  作者: 円地仁愛
第二章
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20. ランチタイムの観測と逃避


オフィスから徒歩数分。通りから一本入った場所にある、こじゃれたイタリアンレストラン。


「ん〜っ♡ すっごく美味しいですぅ♡」


陽光が降り注ぐ明るいテラス席で、森田愛莉がパスタを頬張り、とろけるような笑顔を見せる。春の日差しを浴びてキラキラと輝くその姿に、居心地悪そうにしていた黒川も、いつもの険しい表情を崩して目尻を下げた。


「おう、そりゃよかった。……ま。たまには、こういう店も悪かねぇな」

「えへへ、でしょ? 黒川さんにも食べて欲しかったんです!」


愛莉は無邪気に微笑むと、一口分のパスタをくるくると巻き付けた。


「……ところで、だ。愛莉ちゃん」

黒川は一つ咳払いをして、姿勢を正した。


「さっきみたいに、仕事中にくっつくのは……アレだ。ほどほどにな。俺は一応、現場の責任者なんだからよ」

「ええ~? ……ならぁ」


愛莉は説教をあっさりと遮り、フォークを突き出した。


「反省した私からの『お詫び』です。お口開けてください♡」


鼻先スレスレまで、パスタが迫る。


「……は?」

「今は休憩中ですから。仕事中じゃないなら、いいですよね? 」

「……いや、それは」

「ねっ? あーん♡」

「ぐっ……」


無茶苦茶な理屈だ。だが、至近距離からの上目遣いに、黒川は言葉を失う。

固まる黒川を見て、愛莉はわざとらしく眉を下げた。


「ダメ……ですかぁ?」

「うっ……」

「ならぁ……また仕事中にくっついちゃうかもぉ……?」

「ッ!?」


黒川はヒクッと頬を引きつらせた。


(脅迫かよ……!)


ここで断って、午後もオフィスでベタベタされるのだけは勘弁だ。周りの目もあるし、何より俺の精神力がもたない。だったら誰も見ていない今のうちに機嫌を取っておくのが、一番丸く収まるはずだ――。


「……しょうがねーな。一回だけだぞ」

「はい、どーぞ♡」


黒川は周囲をチラリと確認すると、ヤケクソ気味に口を開けた。

パスタを頬張ると、舌に広がる濃厚な味と、目の前でニコニコ笑う愛莉の顔が視界を埋める。


(…………まあ、いいか……)


山積みの未処理チケットで摩耗した頭が、愛莉の甘い空気に侵食され、心地よく麻痺していく――。


――ピピピピピピピ!!『警告! 思考能力低下! 警告!』


「――っ!?」


慌てて振り返った黒川は、そこに立つ人物を見て息を呑んだ。

春の木漏れ日を背負い、凛と佇む──芽上結衣。手には、配線が剥き出しになった異様な測定器が握られている。


「なッ!!……っ、ごほっ! げほっ!!」


叫ぼうとしてパスタが気管を直撃し、激しく咳き込む黒川。

その隣では、空のフォークを持った愛莉が、笑顔のままピキリと固まっている。

対して結衣は、二人を視界に入れることすらしない。ジッと手元の画面を凝視し、やがて感情の抜け落ちた声で告げた。


「……実験は失敗です。期待していた『ビッグバン』は起きませんでした」

「び、びっぐ……?」

「ええ。反物質(森田さん)との接触で、無限の業務エネルギーが生まれるはずでしたが……」


結衣は憂いを帯びた目で、測定器の画面を黒川へ突きつけた。


「生成されたのは、無駄な廃熱 (デレ)のみ。生産性ゼロの『暖房器具』と同じです。速やかな再起動を推奨します」

「…………おまえ、なぁ……っ!」


黒川が反論しかけたのと同時に、愛莉がスッと軽やかに立ち上がった。


「あのぉ、私……先に戻ってますね」

「えっ? あ、愛莉ちゃんっ!?」

「だって、なんだか……ややこしそうですし♡」


愛莉は伝票を黒川の前にスッと置くと、「ごちそうさまでしたぁ♡」と完璧な笑顔を残して、そのまま足早に店を出て行った。


取り残されたのは、狂気の測定器を構える結衣と、呆然とする黒川。


「…………」

「……黒川さん、あの……デザートきてますけど……。食べますか?」


顔面蒼白の佐藤が、店員からデザートのプレートを受け取ると、震える手でそっとテーブルに乗せた。


「……てめぇら……! どういうつもりだ……!!」

「データ収集です」


結衣は、少し考えるように首を傾げて答えた。


「……黒川さん。エネルギー変換回路が逆回転していませんか?オフィスに戻って、検証しましょう」


「人のプライベートをデバッグ対象にするんじゃねぇええ!!」


黒川の血を吐くような絶叫が、昼下がりのテラスに虚しく響き渡った。





店を出て、開発二課への帰路。


重苦しい空気の中、黒川は不機嫌に黙り込み、カツカツと早足で歩いていた。 その後ろを、結衣と佐藤がついていく。


「……黒川さん。心拍数が平時の1.2倍です。交感神経の興奮が収まっていません」


「うるせぇな。誰のせいだと思ってんだ」


「森田さんです。彼女との接触による性能低減率は、平均40パーセント。早急に接触頻度を見直してください」


トートバッグに突っ込んだ測定器と連動したタブレットを見ながら、結衣が身もふたもない数値を突きつける。 佐藤もおそるおそる口を開いた。


「そ、そうですよ黒川さん。さすがに森田さんに構い過ぎですって。部内でも変な噂になってますし……」


「……あいつはクラウド部の下っ端だぞ」


黒川は歩みを緩めず、吐き捨てるように言った。


「右も左もわかんねぇ『敵地』に、たった一人で放り込まれてんだ。……誰かが見てやんねーと、かわいそうだろ」


「それは非合理な感情論です。彼女への教育コストは、本来クラウド推進部が負担すべきものです」


「……ッ、うるせぇな。わーってるよ!」


黒川が苛立たしげに声を荒げた。その時、 結衣のポケットで業務スマホが振動した。


「……はい、芽上です」


結衣は足を止めず、迷いのない声で応答する。相手は開発二課のメンバーだろう。 彼女は短く二言、三言会話すると、通話を切って黒川に向き直った。


「黒川さん。APIの定義変更が必要になりました。午後に打ち合わせをしますのでご参加を……」

「……いや、俺はいい」

「え?」

「お前の設計だろ。俺が下手に口を挟むより、お前が進めた方が確実だ。好きにやれ」


黒川はそれだけ言い捨てると、そっぽを向くように顔を逸らし、結衣との距離を空けた。 背後から、結衣の困惑したような、しかし真直ぐな声が追いかけてくる。


「ですが、このプロジェクトの責任者は――」

「俺だろ。わかってる」


黒川は立ち止まらず、自身の情けなさを誤魔化すように低く遮った。その声には、ひどく疲れたような自嘲の色が滲んでいた。


「……午後一でいいか。端の会議室が空いてるはずだ」


黒川は、それ以上の追及を拒むように足を速めた。


(……わかってる。全部、お前が正しい。わかってるんだよ、そんなこたぁ)


結衣が来てから、開発二課の景色は一変した。


不可侵だったX-COREが、少しずつ解体され、形を変えてクラウドに組み込まれていく。いずれ全てが最適化され、クリアなシステムへと刷新されるだろう。


彼女のように、美しく透明で――。きっと、そこには自分の勘も経験も、入り込む隙はない。


だが、この流れを作ったのは、他でもない黒川自身だ。 自分を肯定してくれた結衣を支えてやりたいと思った。その気持ちに、嘘はない。


けれど、彼女を助けるたびに、自分の「居場所」が塗り替えられていく。自分のエンジニアとしての寿命を、自ら削っているような皮肉な感覚だった。


(……俺の居場所なんて、もうここにはねぇのかもな)


自嘲を奥歯で噛み殺しながら、黒川は午後のオフィスビルへと足を踏み入れた。




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