19. 恋バグ宇宙創成論
(ああ……平和だなぁ……)
佐藤は自席で淹れたてのコーヒーを啜り、ふぅと深く息を吐き出した。
―― あの鼓膜を破るような黒川の絶叫から数日。
結論から言えば、開発二課は平和だった。
結衣が叩きつけた「完全移行計画」は、彼女を除く満場一致で一旦保留。現実に即した「60点の刷新」を進めることになり、現場には再び前向きな空気が戻っている。
その平穏に一役買っているのが、クラウド推進部の森田愛莉だ。協創の名目で彼女が入り浸るようになってからというもの、黒川の怒号はピタリと止み、かつての絶対君主が嘘のように穏やかだった。
「黒川さぁん、ここの設定、またわかんなくなっちゃいましたぁ……」
「どれどれ。……おいおい、またここ間違えてるぞ。ったく、しょうがねぇなぁ、愛莉ちゃんは」
「えへへ……だって黒川さんが優しく教えてくれるから、つい頼っちゃって♡」
「……ば、ばか。あんまおだてるなよ」
佐藤はもう一度コーヒーを啜り、そっと遠い目になった。
うん。まあ、概ね平和だ。
―――― そう、ただ一点。「致命的な問題」を除いては。
佐藤はおそるおそる、隣の席を盗み見た。
そこにいるのは、どこか神秘的なオーラをまとう美しい女性――芽上結衣だ。
彼女の視線はただ一点、楽しげに談笑する黒川と愛莉にロックオンされている。二人の様子を、一挙手一投足見逃すまいと一心に見つめていた。
(……な、なんか……肌寒いような……?)
佐藤は思わず二の腕をさすった。比喩ではない。結衣のいる右側からだけ、ドライアイスのような極寒の冷気が流れ込んでくるのだ。
当の結衣は微動だにしない。呼吸の気配すらなく、いつもなら超効率でキーボードを叩いている両手も、今は膝の上で固く握りしめられている。
「わぁ、黒川さぁん! このピカピカしてるランプ、何ですかぁ? 工事現場みたいでカワイイ~♡」
絶対零度の視線をものともせず、愛莉の甘ったるい声がフロアに響いた。
「こいつか? これは俺独自の『IDS』……侵入検知システムだ。誰かが変な操作をした瞬間に、このパトランプが鳴るようにしてある」
黒川はラックの上で鈍く光る赤いパトランプを親指で指し、自信満々に胸を張った。
「へぇ~! すごぉい! 鳴るとこ見てみたぁい♡」
「ダメだ、これはオモチャじゃ──仕方ねぇなぁ。ちょっと待ってろ、監視対象をテスト環境に切り替えて……と。よし。ほら、適当にキーを叩いてみな」
「わぁ♡ ……えいっ!」
愛莉がポチッとキーボードに触れた瞬間、頭上のパトランプがキュインキュインと鳴り響き、鮮烈な赤でフロアを染め上げた。
「キャッ! びっくりしたぁ! ……すごぉい、本当に光った!」
「だろ? ま、俺の許可なくこのセキュリティを抜けるのは、普通の人間には到底無理だろうな」
得意げな黒川を見て、愛莉はわざとらしいほどキラキラと瞳を輝かせた。
「さすが黒川さん! 鉄壁ですね♡」
言いながら背後に回り込むと、画面を覗き込むふりをして身を乗り出し――そのまま、測ったようなタイミングで黒川にもたれかかった。
「っ、おいっ……!?」
「きゃっ、ごめんなさいっ! ヒールが滑っちゃって……」
口ではそう言いながらも、愛莉はすぐに離れようとはしない。それどころか、支えを求めるように華奢な腕を黒川の二の腕に絡ませ、その豊かな胸元を容赦なく押し付ける。息がかかるほどの距離感に、黒川は慌てて目をそらした。
――その一部始終を、佐藤は自席から引きつった顔で眺めていた。
(うわ……黒川さん、真っ赤だ……。何してんだよ、もう……。仕事中に堂々とイチャついて……)
佐藤がドン引きしていると、隣からカタ、カタとキーボード入力の音が響き始めた。結衣だ。彼女はいつのまにか彼等から目を離し、モニターに映る複雑な計算式を食い入るように見つめている。
「……あ。ええと、芽上さん。大丈夫? あまり気にしない方が……」
「いえ。問題ありません。……ただ、観測データに致命的なノイズが混入したようです」
結衣は無表情で答えたが、その指先は言葉とは裏腹に、徐々にスピードを上げていく。断続的だった打鍵音が、やがて滑らかな連打へと変わり――瞬く間に、肉眼では追えない異次元の速度へと達した。
「……計算が合いません。対象の心拍数、拡張した瞳孔、分泌物質の予測値……すべてが理論値から乖離している。早く特定して除去しなくては……」
エンターキーが叩かれる前に次のコマンドが打ち込まれ、タイピング音が一つの濁流のように繋がり始める。指は残像を残し、キーボードはカタタタタッ!と限界を超えた駆動音を鳴らし始めた。
「 ……ロジックの深層にまで、侵食が……。……っ、違う、これはノイズじゃない……!まさか、私の『仮説』は、最初から……破綻していた……!?」
ついに打鍵音は、キィィィィィンッ!という高周波の摩擦音へと変わる。プラスチックが焼ける異臭が、佐藤の鼻を突いた。
「って、芽上さん!? 指の動きヤバいって! キーボードから煙がッ!」
――バチッ!! ボンッ!!
破裂音と共に、キーボードの隙間から激しい火花が吹き出し、黒い煙が立ち昇った。結衣の高速演算(超入力)に、安物のデバイスが耐えきれず焼き切れたのだ。
「…………失礼しました。少し……思考がオーバーフローしたようです」
彼女は無表情のまま、黒焦げのキーボードを無造作に引き抜くと、足元のダンボールへ放り投げた。そこには既に、キーボードの残骸が数台積み重なっている。
そして流れるように新品のキーボードを手に取り、ガチャリと接続すると、再びキー入力を再開した。
(……ああ、経費が……。いや、今はそれよりも……芽上さんだ )
「問題ない」と言いながら、キーボードを発火させるほど動揺している。
きっと、嫉妬を理屈で抑え込もうとして、処理しきれずにパンクしているんだ――あまりに不器用な彼女に、佐藤の胸がチクリと痛んだ。
(ああ、もう。黒川さんといい、芽上さんといい……。見ていられないよ……!)
――― キーンコーンカーンコーン
その時、昼休憩のチャイムが鳴り響いた。
「あっ、もうこんな時間! 黒川さん、ランチ行きましょ!?」
「おっ、おう……っ。ちょい待て、設定を……」
「そんなの後で! すぐ並んじゃうんですから、急ぎましょ♡」
「わ、わかった! わかったから引っ張るな!」
抱き着くように腕を取られ、困ったように――けれど満更でもなさそうに目尻を下げ、引きずられていく。 それを見送った結衣が、ガタッ!と椅子を跳ね飛ばす勢いで立ち上がった。
「佐藤さん。私も今日の昼休憩は外出させていただきます」
「う、うん……。それは良いんだけど、あの、まさか……」
「はい。対象を追跡します」
(や、やっぱりぃいいい!!! 泥船が、泥沼に……いや、これはただの修羅場だ!!)
頭を抱える佐藤を余所に、結衣はデスクの下からトートバッグを引っ張り出そうとして――ガサァッ!と、隣に積まれていた「本の山」に引っ掛けてしまった。
佐藤の足元に、おびただしい数の書籍が滑り込んできた。
『恋する会話術』『彼を落とす心理学』『確率論で攻略する恋愛アルゴリズム』『必勝! 合理的告白の最適解』……。
(こ、これは……!)
散らばった強烈なタイトル群に目を丸くし、佐藤が息を呑んで顔を上げると――そこには、この世の終わりのような悲壮な顔をした結衣が立っていた。
「……見つかってしまいましたか」
「すっ、すみません! 見るつもりじゃ……!」
「いいえ。……ちょうど良かったです。実は、行き詰まっていて……第三者の意見を伺いたかったのです」
結衣は深く顔を伏せた。その華奢な肩が、小刻みに震えている。
「私は、ずっと……あの二人を見守ることが最適解だと信じていました。下手な干渉は因果律を乱し、系の安定を損なう……それは避けるべきだと。ですが……」
結衣は、自身の胸元をギュッと握りしめた。
「二人が接触する度に、計算にノイズが生じるんです……。すべてが私の予測から、大きく逸脱していて……」
「何か間違っているのでしょうか……? 佐藤さん、教えてください。もう、私一人では、答えが見いだせないのです……」
「芽上さん……」
その弱り切った声は、佐藤の胸の奥をチクリと突いた。
いつもは完璧で隙のない彼女が、今は自分の感情を持て余し、迷子のように途方に暮れている。
(……こんな顔を見せられて、放っておけるわけない……!)
佐藤は迷いを振り払うように、ガタッと立ち上がった。
「わかりました。どうか顔を上げてください。僕でよければ……芽上さんに協力します!」
「……協力……ですか?」
結衣が潤んだ瞳でおずおずと見上げる。 佐藤は力強く頷き、高らかに宣言した。
「はい! 僕もあの二人の様子には辟易していましたから。芽上さんの気持ちが伝われば、きっと黒川さんも落ち着きます。ですから――」
――その瞬間。
彼女の濡れた瞳の奥で、カッ!! と、強烈な光が灯った。
「……! まさか、内部事情に精通した『現地エージェント』を獲得できるとは……! 感謝します、佐藤さん!!」
ガシィイッ!!
結衣が、佐藤の両手を力強く握りしめる。
「素晴らしいです! あなたの知見が加われば、観測精度は飛躍的に向上します!!」
「えっ? あ、はい……?」
佐藤が引くほどの勢いで、結衣が詰め寄る。 そこにはもう、弱々しい乙女の影など微塵もなかった。
結衣は足元に散らばった本の中から、一際分厚いハードカバーを拾い上げると、ドスッ! と佐藤の胸に押し付けた。
「ぐふっ!」
佐藤がよろめくのも構わず、彼女は演説するかのように熱く語り始める。
「佐藤さん、これは……。宇宙の真理を解き明かすための偉大なる第一歩です! 」
「……う、宇宙の……真理? 」
「先日の『ワンライナー』の奇跡……『愛莉ちゃんのため』と黒川さんは仰いました。つまり、恋 (デレ)こそが、人類を更なる高みへと昇格させるエネルギーに違いありません!」
「め、芽上さん、一体なにを……」
佐藤の思考が追いつかない。
手元に押し付けられた、凶器めいた本の背表紙を見る。そこに金文字で刻まれていたタイトルを見て、佐藤の目が点になった。
『恋バグ宇宙創成論 序説 ~DDD(デレ駆動開発)による生産性無限向上の証明~』
(デレ駆動開発による……生産性無限向上!?!?)
(ていうか、この厚さで『序説』……!? 本編どうなってるんだよ!!)
絶望する佐藤の前で、結衣は嬉々としてトートバッグから謎の測定器を取り出した。
「さあ、急ぎましょう! サンプル(黒川たち)を見失う前に!」
そのままダダダッと凄まじい勢いで走り出しながら、遠ざかる背中でさらに叫びを重ねる。
「共に、この不可解な『バグ』の正体を解明し、エネルギー保存則のパラダイムシフトに貢献しましょう!!」
残された佐藤は、呆然と重い本を抱えたまま立ち尽くした。
「……あれ? もしかして僕、とんでもない宗教に入っちゃった……?」
呆然と呟く佐藤の声に、答えるものはなかった。




