知略の王手
――ポンッ!
地獄の喧騒のど真ん中で、それは、シャンパンの栓を抜いたような、あまりにも場違いな音を立てた。
直後、龍王の誇りは『理』を無視する「質より量の暴力」に叩き潰された。
傷口から溢れ出したのは、大タル六つ分の絶対零度
膨大な氷柱の雪崩が、龍王の巨躯を容赦なく押し流す。
ついに空中に跳ね上げられた王は、そのまま背後の噴火壁に激突。
轟音と共に、煮えたぎるマグマの熱を、圧倒的な冷気の質量が塗り潰し、凍結させた。
巨大な氷の牢獄に閉じ込められた龍王は、内側から燃え上がる炎でそれを溶かそうとするが――その熱すら、次々と生成される「質量」の前に霧散していく。
ザックは、遥か先で氷の牢獄に閉じ込められた龍王を見つめ、乾いた笑いを零した。
――カランッ。
ヴァルターの掌から、聖剣の重みが消えた。
選ばれし者にしか握れぬはずの剣が、岩肌に力なく落ちる音。
隣ではカサンドラが、幾重にも編み上げた幾何学模様の魔式を、力なく霧散させていた。
「……なに、これ。……そう、魔術ですらないのね」
彼女の呟きは、融解を始めた氷が発する、湿った冷気の中へと消えていく。
それは、彼女が人生を賭して積み上げた『理』を、薄汚れた泥靴で踏みにじられた屈辱の告白だった。
そして、限界を超えた魔術の行使が、彼女の意識を失わせた。
――残り、55秒。
雌龍の喉が、引き裂けんばかりの絶叫を上げた。
その紅い瞳が氷漬けの王を捉えた瞬間、彼女自身が巨大な火球へと化した。
大気を焼き、絶壁を焦がしながら、紅蓮の尾を引いて急上昇を開始する。
視界の隅に映る、冒険者ギルド。
竜騎士は鱗を手放すと、力なくその身を投げ出した。
直後、氷の牢獄に衝突した雌龍から、荒れ狂う熱波が放たれる。
凄まじい水蒸気が爆ぜ、ザックが積み上げた絶対零度の質量が、みるみるうちにどす黒い濁流となって流れ落ちていく。
氷雨に打たれ、騎士たちは亡霊のように立ち上がった。
だが、死に体の戦場に灯った希望の火は、一瞬で絶望に塗り替えられる。
溶け出した氷の隙間から、龍王の黄金の瞳が「再起」を告げる。
その背後で献身的に熱を注ぐ雌龍の姿。
完璧な守護と、完璧な破壊。
「……あ、ああ……無理だ、もう終わりだあああ……!」
叫んだ騎士の瞳から、一瞬で正気が失われた。
彼は己の喉をかきむしるようにして、背を向けた。
誇り高き騎士の兜を脱ぎ捨て、泥水を跳ね上げながら、獣以下の無様さで逃げ惑う。
それが合図だった。
次々と武器が捨てられ、戦意という名の糸が千切れる音が戦場を支配する。
再び立ち上がったはずの彼らは、今やただ、自らの死から目を逸らすためだけに必死に手足を動かしていた。
――残り、36秒。
巣穴へと強行着陸した衝撃は、断層全体を震わせる鉄の地響きとなった。
周囲には、砕け散った卵の殻と、今なお命の脈動を湛える十を超える卵が、禍々しい紅い光を放って並んでいる。
男は迷わず部屋を飛び出した。
その瞬間、室内に流れ込んできたのは、肺を直接焼き切ろうとする火炎。
男は、胸元に下げた世界の欠片――『純白の原風景』の封を解いた。
瞬間、男の周囲に、世界の法則を完全に無視した「冬」が展開される。
走る。
舞い落ちる結晶は、触れるものすべてを絶対零度へと誘う凍気。
外側の赤熱した地獄と、内側の静寂の雪原。
その境界線で熱と寒気が激しく衝突し、目も開けられないほどの白い水蒸気が、男の周囲を「雪の結界」として繭のように包み込む。
――時間がない。
男の視線の先には、雌龍が死守していた白い卵があった。
だが、その奥には想定外の事態が起こっていた。
◇ ◇ ◇
最奥。
血の様に『赤い卵』。
表面には血管のような脈動する紋様が走り、中では怪物の雛が、次なる時代を待ち侘びて鼓動している。
異常気象により生じた生命の不具合、終わらない命、「不死鳥の卵」だった。
――残り、23秒。
男は最奥に向けて走った。
男は皮手袋を嵌めた手を、赤い卵へと伸ばす。
――ピシッ
乾いた、小さな亀裂の音。
すぐ手前の白い卵なら、すぐに戻れる。
だが、男の瞳には赤い卵しか映らない。
卵の周囲の空間がぐにゃりと歪み始めた。
世界の法則を無視し、巨大な卵が数センチの小石サイズへと「畳まれて」いく。
男が急停止しながら手を伸ばしたその瞬間。
――ガチッ
「……っ、ぐ、……ッ」
男の右腕に、焼火箸を突き立てられたような激痛が走った。
背後の卵から這い出したのは、まだ粘液に塗れた、醜悪なまでに生命力に満ちた火山龍の「雛」だった。
雛とはいえ、その牙は既に火口の熱に鍛えられ、男の厚手の防護服を容易く貫通し、その下の肉を、骨を、容赦なく噛み砕いていた。
男の額に、脂汗が滲む。
痛み。
――残り、13秒。
魂が宿ったこの雛は、小さくできない。
男は左手で小瓶を引き抜くと、雛の大きく開いた喉元へ突っ込んだ。
親指で、蓋を弾く。
「ギィィッ」と、瓶から解き放たれたロッキングチェアが、本来の質量を強引に奪還する。
頑強なオーク材の脚が雛の下顎を岩に押し付け、背もたれが顔面を跳ね上げた。
くぐもった悲鳴。
その「衝撃」が、地獄のスイッチを入れた。
――パキパキ、パキパキ……。
静寂を食い破るひび割れの音。数多の卵が一斉に胎動を始め、それに応じるように、天から龍王と雌龍の絶叫が降り注ぐ。
視界の端で、龍王の喉元が白熱し、極太の灼熱光線が断層を焼き切りながら迫る。
振り返らない。
走る。
扉が遠い。
背中に伝わる、爆発的な熱量の上昇。
――走る。
男は「部屋」へと飛び込み、背後で扉を叩きつけた。
同時に紅蓮の炎がワンルームを包囲するが、男は動じない。
そのまま、操舵輪を握り込み、限界まで回し切る。
「……、ぐ、……フルスピードだ」
炎を纏った一室が、神話の巣穴を蹂躙しながら突き進む。
――残り、0秒。(依頼達成)
龍王と雌龍の咆哮が空気を震わせ、放たれた極光の熱線がワンルームの背面に直撃する。
凄まじい熱波と衝撃は破壊ではなく爆発的な推進力へと転じ、建物を砲弾のような速さへと押し出した。
龍の火力を乗せた超速のままギルドへと肉薄し、再びアンカーが放たれワンルームは一筋の閃光と化して、減速することなくギルドを戦場から根こそぎ掠め取っていった。
『……ッ、お迎えだ』
騎士たちの身体は、抱き締められるように壁へ激突した。
肋骨が軋む衝撃と共に、鼓膜を裂き続けた龍の咆哮が、嘘のように遠のいていく。
――生存。
遅れてやってきた実感が、心臓を爆発させるように鼓動した。
それが電撃のように全身を突き抜けた瞬間、止まっていた震えが狂ったように身体を蹂躙する。
「……ぁ、……あッ、あッ、……うわああああッ!!!」
生きている実感が、脳を焼き切った。
壊れたようにガタガタと全身が震え、濡れた鎧を「ガシャガシャ」と激しく揺さぶり続ける。
それは生の喜びを叫ぶ咆哮であり、同時に心が永遠に折れた合図でもあった。
この新兵は、もう二度と剣を握れない。
徹底的に砕かれた。
男は懐から、瓶詰の「不死鳥の卵」を取り出した。
「……回収、完了」
自分の血で汚れた瓶を見つめ、自嘲気味に口角を上げた。
モニターに映る冒険者ギルドは八割が焼失。
王国軍は、全軍が壊滅状態。
男は、一時的とはいえ、所有する王国軍のその乱雑が許せなかった。
古の劫火山の入り口付近、熱風が辛うじて和らぐ岩陰。
安全地帯。
たった二割の外装が、角度を変えて王国軍を包んでいる。
揺り籠(二割残った冒険者ギルド)が、戦場から王国軍を優しく大地に降り立たせる。
王国軍のまだ動ける者は、応急処置をしていた。
男は、冷酷に鉄の箱のレバーを引いた――




