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三千年後の丸洗い

「……丸洗いだ」


男は指先で弄んでいたガラス瓶を、遥か眼下の「聖域」へと投棄した。


三千年の伝承が誇る『最初の迷宮』。

かつて幾万の勇者を拒み、英雄の屍を積み上げた人類の禁足地。


落下を見届ける間もなく床に這いつくばり、両手で耳を強く塞いだ。


刹那、世界が上下を忘れた。

瓶から零れ落ちる、山脈のような膨大な聖水。


その余波だけで、男の体は天井へと跳ね上げられると、背中の痛みより先に、肺を空にされる圧迫感が襲った。


「……ッ、はぁ……」


逃げ場を失った大気が断末魔を上げると、一瞬で気温を氷点下へと叩き落とした。


たった一瓶が、巨大な迷宮を氷の棺へと変えた。


凍てつく霧が漂う向こう側。

重力に引き摺られた聖水の塊が、巨大な杭となって真正面から迷宮の門を穿つ。


――宙を舞う門。


迷宮は、圧倒的な物量の前になす術もなかった。

吹き飛ばされたその喉元へ、渦を巻き、飛沫を上げながら、濁流となって流れ込む。


低層を支配している魔物の外殻など、排水溝を塞ぐヘドロにも満たない。


「ギッ、――!?」


その絶叫さえ消毒する。


沸騰する泡に化けた。


その泡すら連れ去る。


水没する迷宮。


逃げ場はない。


――ミシッ、ミシミシッ。


石床が、悲鳴を上げた。


屈した石材を、蜘蛛の巣状の亀裂が走り抜けた。


――限界


底が、粉々に砕けた。


中層、紅蓮の熱気が支配する「炎の精霊」の回廊。

そこへ、銀色の濁流が降り注いだ。


激昂した精霊たちが放つ数千度の咆哮。

回廊は一瞬、眩い白に塗り潰された。


――ジュッッ!


蒸発さえ、許さない。


膨らむ暇さえ与えず、質量がすべて踏み潰す。


泡。消失。沈黙。


数千度の咆哮は、濁流の底へ沈められた。


抵抗は無駄。


あとに残ったのは、死んだように冷たい「お湯」。

ミニチュアのミスリルゴーレムは、気持ちよさそうに流れる湯に身を任せている。


だが、その瞳は無残に暴かれる迷宮の様子を、冷酷に記録していた。


男が投げ込んだのは、ただの聖水ではなかった。


魔法の原点を隠すためだけに建てられた、仰々しい聖教会。


まるごと引き抜いて、乳鉢で粉砕した。


砂埃となった信仰を搔き集め、西方海域にぶちまけて煮詰めた「自家製ブレンド」。

人間はそれを聖水と呼び、男はそれを廃液と呼ぶ。


必要なのは、純粋な心などではない。

幾千の信徒が垂れ流し、石壁にねっとりとこびり付いた「祈りカス」。


それさえあれば、その辺の石ころでも、神の奇跡は再現できる。


「あと少しか」


がらんとした部屋。

男の生き様を映したような、飾りのない空洞。


男は洗濯物に手を伸ばす。


きっちり一日分。


全て、同じ色。


――パチン。


ピンチを弾く無機質な音が止む。


澱んでいた空気の通り道が蘇り、海水混じりの風が、男の頬を冷たく撫でて通り抜けていった。


溢れかえった聖水は巨大な「大砲」と化していた。

途方もなく重い、聖水の水圧を何度も打ち付ける。


迎え撃つのは、最下層を封じ続けてきた禁忌の扉。


何重もの封印。


創造主の呪い。


開きかけては、押し返す。


ジリジリと軋みを上げ、扉がわずかに揺らぐ。

ひしゃげ、断末魔を上げる神域の守護。


それは今、神話の象徴から――ただの、ひどく「重い鉄板」へと成り下がろうとしていた。


亀裂。


針のような高圧の噴出。


一筋、二筋。


狂ったように空気を切り裂く。


その遥か頭上。


乾き具合を確認するように、男はタオルを叩いた。


――パンッ


弾けた。


神話の扉が宙を舞い、対岸の壁に深く突き刺さる。


鼓膜を揺さぶるような大音響と共に、鈍色の奔流が神話の領域へと雪崩れ込んでいった。


最深部。


三千年の埃を脱ぎ捨て、黄金の巨像――「静止の守護者」がその眼を焼いた。


伝説の金属が鈍い光を放ち、魔導炉が宿命の脈動を刻む。


錆びついた関節が上げる悲鳴は、彼にとって至高の決闘へのファンファーレだった。


守護者が夢見た、輝かしき終焉。


だが、そこに「宿敵(勇者)」の姿はない。


視界を埋め尽くしたのは、天井までを隙間なく埋め尽くし、銀色の泡を吹く暴力的な濁流だった。


「……?」


濁流は、玉座ごと巨像を圧し潰した。


丁寧に掘られたバイザーの息抜き穴から、空しく、気泡が漏れていく。


抜剣の機会すら与えられず、廃液に呑まれて鉄屑へと還った。


至高の装甲は廃液に蝕まれる。

伝説の剣は鞘の中で錆びる。


輝かしき「守護者」は、一度もその力を振るうことなく、ただの重い金属塊として沈殿した。


「よし、よく乾いてる」


遥か頭上。

男は取り込んだばかりの洗濯物を、端を揃えて丁寧に畳んでいく。


男は「冒険」などしない。

それは汚れを落とすための、単純な「下処理」。


使い込まれた操舵輪を無造作に掴んだ。




◇ ◇ ◇




高度2,000メートルの静寂に浮かんでいた鋼鉄のワンルームが、重力に身を委ねて一直線に地表へと墜ちていく。


墜落の寸前。


空間を軋ませるほどの急停止。

遅れてやってきた慣性が、再び男の体を天井へと跳ね上げ、床に叩き付ける。


吐血混じりのため息をつきながら立ち上がる。

目だった怪我は無い。


「……ふう、燃料の節約も楽じゃない」


男はふらふらと立ち上がる。

扉を開くと、生ぬるい潮風が吹き抜けた。

鼻腔を付く、不自然に淀んだ臭気。


眼下には、濁流に削られ、巨大な水たまりと化した荒野が広がっている。


男は水位が引いていく様子を眺め、どっしりとした長靴に足を通した。


――ギュムッ。


水没した荒野へと踏み出す。

水圧でゴムが足首に張り付く。


男は虚空に向かって、無造作に手のひらを広げた。


――魂無き物を、手のひらに収める権限。


手のひらを、握る。


それは崩壊という名の略奪だった。


鼓膜を蹂躙する地鳴り。

数キロ四方の岩盤が、巨大な獣の皮を剥ぐように強引に地表から引き剥がされる。


凄まじい重力崩壊。

あらゆる物質が中心を失い、男の手のひらという「一点」へ向かって、逆様の土砂崩れを起こす。


だが、その狂騒も。


男が圧縮された「それ」をガシリと掴むと、世界から音が消えた。


手に収まった『最初の迷宮』は、氷のような冷光を放っていた。


「……やっと洗える」


男は、玄関の段差にどっしりと腰を下ろした。


キィと、安っぽい、油の切れた金属音を立てて屋外用の蛇口がひねられる。


歪んだバケツ。

台所から持ち出した年季の入ったザル。

その上に、眩い『最初の迷宮』を無造作に載せた。


ジャブジャブと、容赦なく水が注がれる。


男は使い古されたナイロンブラシを手に取ると、迷宮の隙間にこびり付いた「神話の残り香」をガシガシと擦り始めた。


「……三千年は、とっくに過ぎた」


男は、かつての友が呼んだ「名」を、バケツの水底に捨てるように沈めた。


――ブクッ。


消えた音と入れ替わりに、迷宮からヘドロが溢れ出す。


信仰に焼かれ、形を失った迷宮の全人口。数万の魔物たちの、それがなれの果てだ。


それらがすべて水流に流し去られたとき。

男の手元には、冷徹な銀の光が宿っていた。

手のひらで静かに脈打つ、逆四角錐の彫刻。


「いい出来だ。……傑作だ」


ザルの底、濁った排水が切れると、「かつての神話」たちが色とりどりの礫となって姿を現した。


ビー玉サイズの古龍。

小豆ほどの精霊王や大悪魔、合成獣。

それらが勇者や賢者に埋もれ、安物のビーズ細工のように転がっている。


「大漁だな」


男はザルを傾け、使い古されて歪んだトレイへそれらを流し込んだ。

湿った音を立てて積み上がる。


極小の死骸がひしめき合い、トレイの上で悍ましくも美しいモザイク画を形作っていた。


待ってましたとばかりに、ゴーレムが玄関の板間に飛び乗った。


布を受け取ると、トレイに積みあがるそれをひとつ、手にする。


指先で、ビー玉サイズの「静止の守護者」がくるくると回され、水気を吸い取られていく。


完全に水気を失うと、ラベルに『素材・未分類』と書かれた瓶へ納められた。


ザルの底に残ったのは、鈍く光る「砂利」。

それは迷宮が長い年月をかけて生み出した、財宝の数々。


男はもう一つのトレイに砂利を流し込むと、黙々と手を動かすゴーレムの横に並べた。


「――よし」


男は立ち上がり、ずっしりと重いバケツを掴む。

濁った水面には、取りこぼした神獣や魔具が浮いている。


男は一瞥もくれず、腕を振り抜き、バシャリと廃液を荒野へと放った。


「ふう、終わったか」


男はワンルームの静寂へと戻った。

作業台の上には、天板に刻まれた、幾何学的な十二の窪み。


それはこの箱庭を繋ぎ止め、世界の干渉を許さぬための設計図。


男は空っぽの窪みをなぞる。


「……約束だ、バルトロメウス。始めさせて貰う」


十二個の世界の欠片。


淀まぬ風、完璧な熱、最初の水。

命ある者の身勝手な鼓動を上書きし、沈黙の中で回転し続ける無機質な循環。


いつか、この世界で最も美しい場所から切り取ってくる原風景たち。


それらを繋ぎ合わせ、調和をもって模られる「世界のレプリカ」。


男が渇望したのは、人間だけが存在しない静寂。

そして、自らもまたその檻の一部となって、永遠に閉じ込められること。


「土台はやはり、この迷宮だな」


洗浄を終えたばかりの銀色の逆四角錐――レプリカの一柱。


最初の迷宮を台座の窪みへと叩き込むと、カチリという小気味よい音がした。


噛み合った「世界」の感触に、男の口角がわずかに吊り上がった。


その瞬間、部屋が激しく震える。


「変質」が始まった。


壁面が、床が、天井が――


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……男って誰ですか……? これは何が起きてるんですか……?
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