13-8
その瞬間というものは不意に見えてくるものだった。
今か今かとどれだけ待っていようと、必ず訪れるというものではない。
なんとなくで始まり、それで良かったのかと振り返る。すべてがそうではないが、そんな時もある。
クロウはだからその一歩を環境に求めてはいなかった。自らゆっくりと歩き始め、その途中で急激に加速した。
行けそうだと判断した瞬間、一気に正体不明のそれに迫って剣を振るう。
周囲には先の腐敗した霧のようなものが広がっているが、剣風と共に霧散させることができるはずだ。
薄闇の中、不気味に蠢く何かの不快な音だけが響く。それは地面との摩擦音なのか、周囲を溶かす酸の溶解音なのか、はたまたどこかにあるかもしれない口からの呼吸音なのか。
生物として不完全すぎるその外見からは何一つ想像ができない。
そんな未知の環境音を切り裂いて、クロウの一撃がそれの奥深くへと到達する。
反対側まで突き抜けそうな勢いだったものの、途中で何かに弾かれる。
ごちゃ混ぜの中に感じた別個体の存在。それがやはり剣気を拒んでいる。
その反応も想定済なクロウは更に第二撃を加えながら、迫りくる反撃を交わす。生物である以上、防衛本能による反射的な動きがあるのは当然だ。
ただ、ここで距離を離されるわけにはいかない。酸の影響を受けないギリギリのラインを見極めて踏み止まりながら、次の攻撃への機会を窺う。
ココやクーン、ラクシャーヌが後に続けるように風穴を開ける必要がある。
ここで仕切り直しという選択肢はなかった。
「シッ!!」
短く息を吐いて前方へ飛び込む。再び間合いを詰める。
それの中にある異質な個体は、今や確実にクロウを捉えている。その視線のような何かを感じる。嫌がっているのが分かる。
ゆえにこそ、攻撃の手は緩めない。
二撃、三撃と矢継ぎ早に剣風を送り込む。そこへ絶妙なタイミングでクーンが魔法を追撃させる。
不気味に蠢くそれの全身が一際大きく振動した。
初めて大きく形が崩れた。クーンが射出した小岩の群れのような土魔法が、ついに奥深くに隠れていた何かをかすめたのだろう。
その隙を見逃さずに、クロウは剣を振るい続けて畳みかけた。剣撃のラッシュによる風圧で、徐々に奥にあったそれが露になって行った。周囲が剥がれ落ちていった形だ。
「行くのん!!!」
更にココがその中心に向かって飛び込んでいった。あのグロテスクな内部へと踏み込んでいく勇気はたいしたものだ。正直、クロウは近寄りたくはない。
だが、拳が武器であるココはどうしても近づく必要がある。
途中で正体不明の身体の一部を足場にしながら、ココの小さな体が疾走してゆく。
その間にも敵は様々な自分の一部を千切り飛ばしてくる。それらそのものが、酸化した武器に等しい。触れれば溶かされそうな危険なものだ。
剣で受けるわけにもいかず、ただ交わすしかない。
ココはそんな離れ業を披露しながら、謎の個体へと迫る。
クーンの土魔法で何らかのダメージを負ったそれは、そんなココの攻撃をきらったのか、思いがけない行動に出た。
完全に正体不明の何かから離脱を図ったのだ。
想像以上に小さなその紫色の影は、ココが辿り着く前に後方へと飛び出した。
やはり巨大な何かとは別のものだったらしい。
そしてその瞬間、ラクシャーヌが叫ぶ。
「離れよ、ココ!」
災魔の魔法が発動寸前だった。
「ぬぁーーー!!」
ココが悔しそうに叫びながらもそのままの勢いで反対側へと駆け抜ける。攻撃できなかったことが無念だったのだろう。
その後ろ姿を見ながらクロウも距離を取る。クーンも既に移動していた。
小さな影を視界の隅に納めながらもラクシャーヌの邪魔にならないような位置取りを心掛ける。上空で凄まじい魔力が増大してゆく。
「わっはっは!喰らえ!!!」
哄笑と共にラクシャーヌがそれを解き放つ。
薄闇を切り裂いて、稲光の雨が降り注いだ。雷系の魔法なのだろう。天から地面へと雷光が美しくも残酷に正体不明の何かを蹂躙する。
前回と違ってそれを阻むものはない。
やはり、あの中にいた個体が魔法に対する防御を司っていたようだ。
得体の知れない合成獣は、なす術もなく災魔の魔法によって切り裂かれてゆく。断末魔はない静かな崩壊だったが、その千切れ飛ぶ肉塊がびちゃびちゃと周囲に飛び散る音だけが生々しく哀れだった。
その一部には酸による溶解効果も残っており、傍観している暇もなかった。避けなければ被害を被る。
それが無残に壊れるのを見ながらも、クロウは抜け出した個体の方を気にかけていた。
どういう関係性なのか憶測するならば、あの中にいた個体こそが操っていたと考えるのが妥当だ。しかし、その個体と称すべきものの正体が未だにつかめない。
紫色の霧のようなものとしか形容できない。
何かのカモフラージュでそうしているのかどうかすら判断ができなかった。
「ココ、あれを追え!」
分かっているのは、逃してはならないということだ。それ何であれ、この合成獣であるキメラの情報を握っていることに変わりはない。
捕縛する必要があった。
消化不良のココには打ってつけの任務だ。
「らじゃー!!」
猟犬の如く駆け出してゆく。クロウもそれに続く。合成獣の方はも脅威ではないだろう。ラクシャーヌの面目躍如だ。
「クロウの兄貴!馬の方が速いッスよ!」
その背後からアリーが馬を引き連れてきた。良いタイミングだ。
馬の背に飛び乗る。
「あの妙な奴を追う。手伝ってくれ」
「ういッス!」
「あの霧は何だと思う?」
馬で並走しながらアリーの意見を聞く。
「分からねッスけど、魔道具の類じゃないかと。よっぽどバレたくないんスかね。常時発動してるみたいだし、普通に魔法使ってる感じじゃないッス」
「やっぱり偽装のための魔道具か」
その紫色の霧は今や完全に逃走にかかっていた。その後をココが追跡していく。
何としてでも殴りたいというような気迫の褐色娘は、相手にとって厄介極まりない追手だろう。
「待つのーん!」
軽い調子で追いかけまわされている感じだが、当人としては肝を冷やすに違いない。無邪気に追い詰められている感覚がするはずだ。
(いつまでも戯れに付き合っている暇はないわ)
不意にクーンが独り言のようにそう言った。不思議な獣も知覚を並走していたのだ。その金色の瞳が一際輝いたように見えた。
すると、紫の霧が急に制止した。急停止したというべきか。
まるで見えない壁に阻まれたようにその場に留まっている。
クーンが魔法で何かしたようだ。
その間にココがあっという間に距離を詰める。それ以上は進めないとあきらめたのか、霧の塊が揺らいだ。ココの方へ向き直ったのかもしれない。
唐突にその霧の中から何かが放たれた。それは燃え盛っている炎の何かだった。薄闇の中でも分かるほど赤黒く目立っている。形状は不明だが、明らかに攻撃的なものとしてココに向かって飛んでゆく。
「なんのー!!」
どこか気の抜けた声を上げながらそれを避けたココは、更に加速する。
いよいよ両者の距離が零に近づく。
そしてココが飛んだ。横っ飛びのような飛び蹴りを第一撃として選んだようだ。籠手の意味がないとは思ったが、蹴り技も習得したのだろうか。
相手は相手で、それをまともに受ける気はないらしい。
不意に霧が二つに分裂した。どちらが本物なのか、あるいはどちらも幻なのか。まったく判別がつかない。
ココは惑わされることなく、片方へと突っ込む。深く考えたわけではなく、勢いだろうと思われる。
その蹴りは見事に無を貫いた。
「わぁぁーーー!!!」
間抜けな声と共にココの一撃は地面を抉って終わる。その間にまた紫の霧が全力で遠ざかる。
本当に離脱を図っているようだ。この期に及んでそれが叶うと思っているのだろうか。
「こら、クロウ!最大の功労者であるわっちを置いて行くでない。余計に疲れたじゃろうが」
ラクシャーヌがクロウの中に戻ってくる。
「よくやってくれた、ラクシャーヌ。後はあの別個体だけだ」
(後は任せた。わっちは疲れたから眠るぞ)
十分に働いてくれたので、今日は何も文句はない。
必死で逃げの一手を打つ霧を追う。速度的には追いつけるはずだが、まだ遠い。
(クーン!あいつをまた足止めできないか?)
(ふん、わらわを便利に使おうなどと思わないことね)
そう言いつつも、クーンはまるで準備していたかのように魔法をすぐさま放った。
霧に向かって地面から土の蔦の塊が絡まってゆく。すり抜けられるかと思ったが、無数の細い蔦は霧の中心を囲むように巧妙に伸びて囲ってゆく。
その間に追跡していたココがその距離を一気に詰める。
「にゃんにゃろー!」
今度こそとばかりに突き上げられたココの拳が火を噴いた。
土の蔦に絡まれた霧の中心に向かって、籠手をまとっているとはいえためらいなくパンチを繰り出せるのは見事な胆力というべきか、考えなしと注意すべきなのか。
結果的には、ココのその一撃は恐ろしく効果的だったようだ。
一瞬で霧が消し飛んで、ついにその姿が露になった。
メッキが剥がれると呆気ないものだった。それは人間だった。魔道具で隠れていただけで、中身はただの人だ。
更に言うならば、ココの拳は完全にその身体を捉えていたようで、その人間は悶絶していた。地面に倒れ込んでいる。
「はりゃ?」
攻撃した当人も困惑するほどの手応えのなさだったようだ。
「……既に入れ替わっていたとかいうオチじゃないよな?」
先程まであの正体不明の中にいて、こちらの攻撃を防いでいた相手とは思えない。
「有利な時だけイキるチキンじゃないッスかね」
アリーの辛辣な評価の通りなのかもしれない。
最後は拍子抜けする結末だったが、どうにか今回の騒動はこれで納められたようだ。
何が起こっているのか、後はこいつに聞くとしよう。
(結局、そなたはたいした働きをしていない気がするのは気のせいかしら、クロウ?)
揶揄するクーンに返す言葉をクロウは持っていなかった。
こういう皮肉が言えるなら、クーンに尋問を担当してもらったほうがいいのではないか。
そんなことを思うクロウだったが声には出さなかった。これ以上、余計な小言を聞きたくはなかった。




