第32話 灰と花弁
「今さら私が言うのもなんだけど。どうせ町の外に逃しにいくなら、その妖狐、罠にかけたまま運んだ方が良かったんじゃない?」
言っても仕方ないとわかっていても、赤色が滲んだ包帯を見てしまうと言わずにはいられなかった。
「そうかもしれないけど、コンちゃん苦しそうだったし。これはこれで良かったかなって」
「……ならいいけど。それと、傷を治す妖術なら使えるはずだから、あとで言って」
「うん、ありがとね」
腕をケガしながらも妖狐を優先する百を見ると、桜餅を取られたくらいで頭にきた自分が少しばかり恥ずかしくなってくる。
いや、でも、イラつくものはイラつくしなあ。
私は白い狐に顔を近づけると、その額に軽くデコピンした。
「コンッ!?」
「ちょっと、心葉さん!?」
よし、桜餅のことはこれで忘れるとしよう。
恨みがましい妖狐の視線を受けながらも、私はすっきりした気分で伸びをした。
◆
これで何事もなく町の外までたどり着ければよかったのだけど、そううまくはいかないもので、私たちは最も会いたくなかった人物と鉢合わせしてしまった。
「……お、お母さま」
濡羽色の髪と、静かながらも威圧感のある瞳。
瑠璃の母、桔梗がちょうど前から歩いてきた。
「あら、なかなか見つからないと思っていましたけど、すでに瑠璃たちが見つけていたのね」
その視線は百の腕の中に注がれている。
「でも、どうして妖怪を祓いもせず、抱えているのかしら」
言葉が温度をもつのなら、この場所は夏も秋もすっとばして、今にも冬を迎えてしまうだろう。
それほどまでに桔梗の言葉は冷たく、私の肌に張りついた。
私が何も言えずにいると、すっかり縮こまってしまった妖狐を抱きしめながら、百が口を開いた。
「あっ、あ、あの」
「そんなに慌てなくてもいいのですよ。妖祓師見習いであるあなたたちが、妖怪の危険性を知らないはずもないでしょうし、何か事情があるのでしょう? ねえ、瑠璃」
喉元に氷の刃を突きつけられたようだった。
「……お母さま。妖怪がいたというのは、勘違いでした」
「どういうことかしら?」
「この狐につけられている首輪。ここに追霊盤の霊石がついています。霊石が放った霊力を、私が勝手に妖怪と勘違いしたみたいで、本当はただの狐みたいです」
「そ、そうなんです。この子が迷子にならないよう霊石を持たせていたんですけど……その、紛らわしくしてしまってごめんなさい!」
私がとっさについた嘘に、百も乗っかってきた。
桔梗は考えの読めない瞳で、私たちをじっと見つめていた。
「少し見せてもらってもいいかしら?」
桔梗は百の抱く妖狐に近づくと、腰をかがめ、首元の霊石へと手を伸ばした。
さすがの妖狐も実力差がわかっているのか、噛みついたりせずに大人しくしている。
「あら、本当ですね」
桔梗はかがんでいた姿勢をもとに戻すと、百に目を向けた。
「私は瑠璃の母の桔梗です。あなたのお名前を伺ってもよろしいかしら」
「山桜百です」
「一面に咲き誇る桜の景色が目に浮かぶようで、とても素敵なお名前ね。……ところで、山桜さん。その子、私に少しだけ抱かせてくださらないかしら」
「え、それは、その」
桔梗の意図が読めないのだろう。
百は救いを求めるように私を見つめた。
「あなたのその左腕、怪我をしているでしょう? 瑠璃は怪我を癒す妖術が得意ですけど、さすがにあなたがこの子を抱えたままだとやりづらいでしょうから、少しの間だけ、ね」
「……」
百はわずかに躊躇したけど、桔梗に妖狐を渡した。
百の腕にいる時はあれだけ逃げ出そうと暴れていた妖狐も、桔梗の手が迫るとすっかり大人しく、というか怯えてしまっているように見えた。
「瑠璃、傷の治癒は……できますか?」
「もちろんです、お母さま」
桔梗の口調にはわずかばかりの不安が込められているように思えた。
私が転生した前後で、瑠璃の様子に変化があったことを、多かれ少なかれ、誰もが何かしら感じ取っているのかもしれない。
「術式復水、【清々流転】」
包帯を解いた百の左腕を、ぼんやり光を放つ霧が包みこむ。
霧が晴れるとそこにはすっかり元どおりの腕があった。
見た目どおりなら治っているはずだ。
「治った、よね?」
「うん、全然痛くなくなった。ありがとね」
腕が治った百は、妖狐を抱える桔梗にゆっくり向き直った。
「あの――」
「ねえ、山桜さん」
百の言葉にかぶせるように、桔梗の声が響いた。
「この霊石は、あなたがご両親に買って頂いたものでいいのかしら?」
「えっと、そうですけど」
「何か特別な思い入れがあったりはしませんか?」
「いえ……最近、買ったばかりなので、とくに」
「そう、よかった」
いったい何を聞きたいのか。
問いかけの意味がわからず、百は首を傾げながら答えていく。
「それなら安心ね」
安心……いったい、何が?
ふと、私には母が何を考えているのか、直感的にわかった気がした。
そして、その直感が正しいなら、百の返答は致命的だったということにも。
桔梗の指が、妖狐の首元をなでた。
ぱきり。
何かが割れる音が、小さく響いた。
「山桜さん、ごめんなさいね。でも、こうでもしないと確かめられないから」
桔梗の指には、割れた霊石がつままれていた。
「壊してしまった追霊盤は……そうね、新しいものを瑠璃に預けておきましょう。お詫びになるべく良いものを用意しますね」
桔梗は妖狐を抱えたまま百に近づくと、割れた霊石を手に握らせた。
「さて、これで紛らわしい霊力はなくなりました。この子が妖怪なのか、それとも普通の狐なのか、ようやく判別できますね」
桔梗の瞳が三日月のように細くなった。
「ああ、これは妖怪ですね」
桔梗の腕の中、妖狐は三本の尻尾を一本に誤魔化し、媚びたような鳴き声をあげる。
その姿はまさに人懐っこい狐そのものだ。
それでも、そこまでしても、霊力を感じとれる者ならわかってしまう。
この狐は、たしかに妖怪なのだと。
「まっ――」
「術式陽炎【炎纏】」
妖狐を青い炎が包んだ。
それは一瞬だった。
私の叫びが届くよりも早く、断末魔が響く間もなく、妖狐の体は灰になった。
突如、吹いた春風が桜の花弁といっしょに灰を攫っていく、あとには物言わぬ骨だけが残っていた。




