3-6 違和感の正体
「昨日は失礼しました。これが娘の莉奈です」
「……九十九様、はじめまして。よろしくお願いいたします」
翌日、明るくなった事務所の中で八雲は榊親子と向き合っていた。昨日は電話越しに声だけ聞いた榊の娘は、その印象とは裏腹にとてもしおらしい様子の美人であった。
「昨日は体調が悪くて、お迎えできずに申し訳ありません」
「いえ……もう大丈夫なんですか?」
「ええ、少し頭痛はしますけど」
小首を傾げて片手を頭にやる様子は可憐で、普通の男ならば簡単に騙されてしまいそうだ。しかし八雲は表情には出さないものの、内心「どうせ二日酔いだろうが」と毒づいてしまっていた。
八雲は莉奈と話しながらも、榊親子に気付かれない様にひっそりと事務所の奥を窺う。つい先ほども八雲達に紅茶を出したので美咲もいるはずなのだが、その気配はまったく感じられない。普段からずっと、こうして息を潜めて過ごしていたのかと考えると彼は無意識のうちに右手を握りしめていた。
昨夜美咲が話してくれたのは、優秀と言われるこの氷森支部の本当の実態だった。
この事務所の異能者は三人だが、しかし実際に怪異の調査や討伐を行っているのは美咲ただ一人であるという。榊は表の仕事に掛かりきり、そして莉奈に至っては普段事務所に寄りつくこともなく、美咲も彼女のことは殆ど知らないのだ。実質、怪異調査事務所を運営しているのは美咲一人ということになる。
たった一人で、誰にも助けてもらえない状態で怪異と戦い続けるなど恐ろしくて堪らなかっただろう。そもそも怪異調査事務所というのは異能者がそのような状態に陥らない為にお互い協力しようと作られたものであるというのに。
いつも体中に怪我を負い、それでも戦い続けた美咲。自分がやらなければ誰もこの町を守る人間が居なくなると必死になっていた彼女だったが、八雲に助けられたことでずっと張りつめていた糸がぷつりと切れてしまった。
堰を切ったかのように泣き始めた美咲を無言で支えていた八雲は榊に対しての怒りを覚えながらも、しかし彼女に対して僅かに違和感を覚えていた。
それだけなのか。八雲が思ったのはそれだった。
それは勿論今まで彼女が辛い思いをしてきたことに対してではない。苦しげに自分のことを話す美咲に八雲は一つだけ尋ねたのだ。“どうして誰にも助けを求めずに黙っていたのか”と。
しかしその質問に対して彼女は何も答えはしなかった。それどころか不安げに視線を彷徨わせてまた右手はチョーカーに触れている。……それは、彼女が何かを隠す時の癖なのだろうか。
頼れる人間が居なかったというのならそう言えば良かったのだ。しかし何も言わずに八雲から顔を背けた彼女を見て彼は半ば確信していた。美咲はまだ何かを隠しているのではないか、と。
「確か莉奈さんも異能者だと伺いましたが……一体どんな異能を?」
「九十九さん、流石にそれはちょっとご遠慮願えますかな。異能者にとって自分の異能は切り札ですから……まあ身内となれば話は別ですが」
「はは……それは失礼しました」
莉奈に問いかけたというのに八雲の質問に答えたのは榊の方だ。言外に結婚を迫られた八雲は愛想笑いでそれを躱し、なんてことのない世間話に戻った。
今の発言で八雲が感じたのは、榊よりも莉奈の方が確実に付け入る隙があるだろうということだ。慌てて娘を庇って割り込んで来た彼のことを考えれば、彼女の方がぼろが出やすいと判断していい。
消費者金融の不正は証拠があるからいいが、正直事務所の運営については美咲の証言だけでは確証に欠ける。なんとか榊がいない所で莉奈から情報を得られないかと考えていると、ちょうどタイミングの良いことに話題が途切れたタイミングで「それじゃあそろそろ二人で」とお決まりの台詞を口にした。
「昨日一日でこの町は回り切れなかったでしょう? 莉奈、案内して差し上げなさい」
「はい、お父様」
「私はこれから仕事があるので、すみませんが失礼いたします」
「ええ、お忙しい中ありがとうございました」
はっきり言ってしまえば然程広い町ではないので昨日であらかた町の状況は把握してある。しかし榊の言葉に乗った八雲は立ち上がりそのまま莉奈の跡について事務所を出ようとした。
「……」
しかしその直前で八雲は美咲が事務所の奥から出てきたのをぎりぎり確認することが出来た。彼を不安げな目で見つめていた美咲に強い視線を返した八雲は、心の中で「もう少し頑張ってくれ」と謝りながら事務所を出た。美咲に八雲のアドレスは教えている。何かあった時に連絡してくれとは言ったものの、しかし彼女が果たして何かあったとしても八雲に伝えるだろうかと正直心配だった。
「九十九様のことは父から伺っておりますわ。何でも最年少で所長になった素晴らしい方だと」
「いえ、只の親の七光りですよ」
歩きながら出された話題は彼を煽てる為に言ったものだったのだろうが、はっきり言って八雲にとってはあまり好ましくないものだった。彼が若くして怪異調査事務所の所長になったのは勿論九十九の人間だったということもあるが、何より当時、一真が亡くなって人手不足に陥っていた事務所で所長になれるのが八雲しかいなかったというだけの話だ。
幼い恭一郎と八雲の二人しかいなかった影白支部。それを見かねて当時上層部に異例の抜擢をされたばかりの七海や忙しい五樹の手も借りてなんとかここまでやって来た。
「莉奈さんは、普段どのようなことを?」
「父の手伝いや怪異の調査をしておりますわ。ただ大学が忙しくてあまり時間がないので、あの方……あの……神凪、さんには随分とお世話になっています」
「……そうですか」
途中まではすらすらと言葉を暗記したように話していた莉奈が、美咲の名前で突然言葉を詰まらせるのを聞いて八雲は悟られないように呆れた。事務所のメンバーの名前すらすぐに出てこないとは、本当に彼女は殆ど美咲に関わっていないのだと言っているようなものである。
「それでこちらにあるのは――きゃっ」
昨日見た場所をひたすらなぞって歩いていた時、不意に莉奈が何かに躓いたのか小さく悲鳴を上げて八雲の腕にしがみ付いた。急に掛けられた体重に八雲は驚いたものの、よろめいた後もずっと彼の腕を掴んでいる莉奈を見て「わざとか」と妙に冷めた目で彼女を一瞥する。
「大丈夫ですか」
「はい……すみません。まだちょっと体調が」
「どこかで休みますか?」
どうせ一度回った場所で、歩いていても無駄に体力を消費するだけだ。だったらカフェでもファミレスでもいいから座って話を聞き出した方がいい。そんな八雲に頷いた莉奈は「では、こちらに……」と彼の腕にますます絡み付いて歩き出した。昨日の電話を聞かなければもしかしたらやばかったかもしれない、と上目使いで自分を見上げる莉奈に八雲は末恐ろしいと口の端を引き攣らせた。
「……ん?」
「どうかなさいましたか?」
「いや……」
己に密着して歩く莉奈を見た時、八雲は一瞬何かの違和感を覚えた。それが何か分からないのだが、しかし決して見落としてはならないものである気がしてならない。
それが何かを考えて思考を巡らせていた八雲は、しばらくして見覚えのない町並みが視界に入って来た所でようやく我に返り、そして現在の自分の状況を省みて莉奈の思惑を悟った。
昼過ぎだというのにどこか薄暗い雰囲気の、そして妖しくいかがわしい空気を漂わせる建物が並ぶ場所。昨日美咲が案内を避けたその場所を歩いていることに気付いた八雲は、咄嗟に莉奈の腕を解いて元来た道を引き返そうとした。
「九十九様?」
「莉奈さん戻りましょう」
「どうしてですか? ……休ませて、下さるんでしょう?」
再び八雲の腕を掴み、今度は体も寄せて蠱惑的な笑みを浮かべる莉奈。昨日のことを思えば八雲のことを好いていないのは明らかで、つまり父親である榊が彼女に色仕掛けをしろと指示したということに他ならない。自分の娘の体まで容易く使おうとする榊に酷い嫌悪感を覚えた八雲は莉奈を突き放そうとして、しかしそこでようやく先ほど感じた違和感の正体を理解した。
八雲の腕に絡む細く白い腕、押し付けられる柔らかい体、鼻に付く香水の、匂い……そう、それだけだったのだ。
「莉奈さん、止めて下さい」
「私では、駄目ですか……?」
「榊所長の思惑は分かっている。あなたが嫌々俺の相手をしていることも、所長があなたを使って九十九の権力を得ようとしていることも、全部」
「……なあんだ」
その瞬間、莉奈の表情が一変した。先程までのしおらしい雰囲気はどこへ行ったのか、途端に八雲から体を離した彼女は面倒くさそうに、ぱたぱたと自分の服や体を払うような仕草をした後「だったらさっさとそう言ってよね」と不機嫌そうに八雲を睨む。
「分かってたのに私に着いて来たの? このエロ親父」
「……やっぱりそっちが本性か」
「ホントに無駄に時間使っちゃった。……あ、パパにはちゃんと町案内したって行っといてよね。私遊びに行くから」
言うだけ言った彼女は、そのまま八雲に背を向けてつかつかと早足で歩き出した。傍を通り過ぎた恋人らしき二人が一人取り残された八雲を見てくすくすと笑うが、彼はそれに構わずに携帯を取り出して電話を掛け始めた。
少し長く続いたコール音に八雲が電話を切りかけたが、その直前にぷつりと電子音が途切れ、聞き慣れた声が聞こえて来た。
「もしもし、八雲?」
「ああ。兄さん、今ちょっといいか?」
「構わないけど……この後研究会に出席するからあまり時間は取れないと思う」
「研究会?」
「県内の医者が集まって色々話し合うんだよ。まああんまり実のあるものじゃないけどね」
「……それは、何とも好都合だな」
八雲は五樹の言葉に小さく笑った後、先ほどの莉奈を思い出しながら「何かあったのかい?」と不思議そうに尋ねてきた五樹に「ああ」と短く言葉を返した。
「兄さんに頼みたいことがあるんだ」




