3-5 SOS
「これはこれは……見事に真っ黒じゃねえか」
月明かりだけを光源にして八雲は氷森支部で一人こっそりと、榊が管理している書類を漁っていた。
七海達と別れた後、八雲は再び美咲に町を案内された後事務所に戻った。その後榊と怪異の情報交換を終えた八雲は用意されたホテルにチェックインしたのだが、深夜になると彼は異能を使って事務所に忍び込んだのだ。
七海が八雲に調査を頼んだ理由は、彼の異能がこうした隠密行動に向いているからだ。八雲からしてみればやっていることは泥棒同然なので出来る限り御免被りたいのだが、こうして不正や犯罪を暴くことで少しでも救われる人がいるのならばと自分の気持ちは飲み込んでいる。
目にしている書類は表の仕事である消費者金融の契約書や帳簿なのだが、金利が明らかに可笑しくあからさまに多く印字されているゼロの数に眩暈がしそうになった。そもそもこれらは巧妙に隠されていたものなのだ、後ろ暗いものであることは間違いない。
証拠をしっかりと写真に収めると、八雲は次に別の引き出しを漁り始めた。今度は消費者金融ではなく、怪異調査事務所としての運営状況を確認する為だ。
七海が言うには確かにこの事務所は怪異の被害も少なく優秀とされている。しかし表の仕事の酷い経営状態を目の当たりにした八雲は、それすらも何か疑うべき場所があるのではないかと考えていた。
八雲に向かって羨ましいと呟いた美咲の言葉が引っ掛かっていたということもある。彼女に対する高圧的な榊の態度や、あまり真面目ではなさそうな彼の娘(これに関しては完全に八雲の偏見も入っているだろうが)。それらを思い出して、この事務所は本当に話通りの優秀な所なのだろうかと一枚一枚書類を捲っていると、突然彼は急激な寒気に襲われた。
ひたり、と首筋に感じた冷たい感触は気のせいなどではない。彼の首には暗闇にひっそりと光る凶器が確かに突き付けられていたのだから。
「――何者ですか」
八雲の背後から聞こえて来たのは淡々とした女性の声だ。感情の籠らないその声にどこか聞き覚えのあった彼は、相手を刺激しないようにゆっくりと両手を上げて視線を後ろに下げる。
「あ」
ぽつりと呟かれた声と共に凶器が八雲から遠ざかる。それに合わせて彼が背後を振り返ると、そこには目を見開いた美咲が鈍く光る刃――薙刀を持ち困惑した様子で彼を見つめている所だった。
「九十九、さん?」
「……神凪さん、いやー偶然だなあ。こんな時間にどうしたんだ?」
「私はこの下の階に住んでいるので、物音が気になって見に来たんですけど……九十九さんは一体何を。鍵が掛かっていたのにどうして中に?」
訝しげに八雲を見る美咲の視線に、彼は背中に冷や汗が流れるのを感じながら曖昧に笑った。無意識に彼女の持つ薙刀の射程内から離れようと後ずさった八雲は、その拍子に机に腕をぶつけてしまい出したままになっていた書類を床にばら撒いてしまう。流れるようにその書類に目を向けた美咲はしばらくそれを見ていたものの、ふと顔を上げて表情の読めない顔を八雲に向けた。
「……」
まずい。とてもよくない状況なのだが、しかし八雲の脳内ではこの状況を上手く打破する方法など思いつかない。仮に逃げれば榊に伝わり、下手をすれば警察沙汰にされるか、そうでなくても確実に弱みを握られる。八雲を脅して九十九の権力を好き勝手に使う、それは大いに考えられることだ。
ならば今絶対にしなくてはならないことは、この状況が榊に知られないようにするということである。つまり、何が何でも美咲を言いくるめてこの場を収めるしかない。
「いや、昼間に来た時に忘れ物をしてなあ! 見つからないから探して」
「嘘は結構です」
八雲の言葉を容赦なく一刀両断した美咲に流石に彼の顔も引き攣った。その手に持つ薙刀がいつこちらに向けられるかと戦々恐々としていた八雲だったが、しかし美咲はじっと八雲の顔を見つめた後床の書類を拾い上げ、それをそのまま彼に渡して来たのだ。
「……どうぞ。好きになさって下さい」
「え?」
「所長には言いませんし、もう何も聞きませんから」
押し付けられるままに書類を受け取った八雲は美咲の意図が読めずに困惑する。彼女はそのまま彼から視線を外して薙刀をしまい、その後軽く会釈をして事務所を出て行こうとしていた。しかしそんな美咲に、八雲は思わず彼女の腕を掴んで声を上げた。
「待ってくれ!」
「……何か、御用ですか」
「嘘を吐いて悪かった。だが、どうして何も聞かないんだ」
普通、勝手に事務所に侵入した人間を放置するはずがない。彼女だってつい先ほどまでは八雲に武器を向けていたのだ。それなのに突然のこの態度の変化は一体何があったのか。
探るような目で美咲を見つめる八雲に彼女はその視線から逃れるように俯き、そして小さな声でぽつりぽつりと話し始めた。
「今の書類、表の仕事のものですよね」
「ああ」
「物を盗る訳でもなくそれを探していたということは、九十九さんは調べに来たんでしょう。……ここの経営は、本当に酷いですから」
「……君は、知ってたのか」
榊一人で全てを行っているとは考えていなかったが、それでも八雲は美咲のことを出来るだけ信じたかった。今日一日行動を共にして悪い人間にはとても見えなかったのだから。
しかし彼女は八雲の言葉に無言で頷いてみせる。美咲自身が直接仕事に関与しているかは分からないが、それでも彼女はそれを知っていて尚見て見ぬ振りをしていたということになる。
「どうして……いや、知られたらここが潰されると思えば当然か」
「違います!」
独り言のような八雲の声に、突如感情の籠った怒声が返される。今まで淡々と話していた美咲の思わぬ反応に彼は驚いたものの、彼女はすぐにはっと我に返って「すみません……」と八雲に頭を下げた。
「事務所がどうなろうと、私は構いません。所長の不正は暴かれるべきです。けど……」
美咲の右手が持ち上がり、震える手で喉――いや、首に巻かれたチョーカーに触れる。
静寂を切り裂くように単調な電子音が事務所内に響いたのは、その直後だった。美咲は途端に目を見開いて再び薙刀をケースから取り出すと、すぐに携帯を取り出して画面を食い入るように見つめる。そして数秒も経たないうちに美咲は窓を開け、窓枠に足を掛けて飛び降りたのだ。
「おい!」
「怪異です」
状況に着いて行けなかった八雲が声を上げるものの、彼女は短く言葉を残してそのまま窓の外に姿を消した。慌てて窓の外に身を乗り出した八雲は、美咲が建物の屋上や屋根を駆けてどんどん離れていくのを見て、彼もすぐさま動き始めた。
「忍者かよ……」
怪異調査事務所に怪異の情報が届けられる方法は主に二つだ。一つは怪異に襲われた人からの情報……一般人の場合事務所に協力している警察や病院などからその情報が来る。もう一つは怪異のことを知る人間や、影白町の場合“影”のような怪異によって人間が襲われる前に危険な怪異について情報を持って来ることもある。
そして今回の場合は後者だった。連絡が入った携帯に表示された位置情報を頼りに屋根を蹴って宙を駆ける美咲は、一分も経たないうちに現場に到着した。
数メートル上空から軽々と着地した彼女は、周囲に漂うピリピリとした空気を肌で感じ薙刀を握る手に力を込める。一瞬のうちに彼女の目の前に飛び出して来た鳥形の怪異は真っ二つになり、そして我先にとばかりに次々と美咲に向かって怪異が襲い掛かって来た。
六体。すぐさま把握した美咲だったが想像以上の数に唇を噛み締めた。構わずに真横から噛み付こうとした怪異を串刺しにし、そして彼女は異能を発動させる。
「がっ」
美咲に刃を向けていた怪異達が一斉に吹き飛ばされる。彼女を中心に発生した台風のような突風に、怪異達はビルの壁に叩き付けられ鈍い悲鳴を上げた。
神凪美咲の異能、それは周囲の空気を自在に操り風を発生させるものだ。先程の移動も異能を使い風を纏って速度を上げていた。
変幻自在に風を使う彼女の異能はとても便利だが、しかし所詮は風である。吹き飛ばすことは出来ても一瞬にして風圧で押しつぶすほどの威力はない。案の定壁に叩き付けられた怪異は怪我こそしているが数は減っていなかった。
だが隙さえ出来ればこちらのもの。美咲は大きく薙刀を振って二体の怪異を薙ぎ払うと、続いて振り向きざまに直前まで迫っていた人型の怪異の喉を突く。しかしそれを狙っていたかのように、彼女の刃が怪異を貫いた瞬間、上空からドリルのような嘴が美咲の脳天を狙って落ちてくる。
「っ!」
咄嗟に気付いた彼女が風を起こして怪異を遠ざけようとするが、しかし怪異の方が早かった。ぎりぎりで避けた為嘴が頭をかすめるだけで済んだものの、美咲の頬に頭から流れた血が伝う。息が上がりくらくらとする視界の中、襲い掛かってくる怪異達に美咲は力を振り絞って薙刀を振ったものの、掻い潜るように懐に獣の怪異が飛び込んできた。
異能を使う余裕も無かった美咲が、いつものように来るであろう痛みに耐えるように体に力を込める。しかし獣が美咲に牙を剥く直前、彼女と獣の間に割り込むように現れたそれを視界に入れ、美咲は一瞬驚きに硬直した。
「危ねえなあ、一人で戦う数じゃねえよ」
「つ、くもさん」
美咲と怪異の間に現れた八雲は勢いよく飛び掛かって来た怪異をナイフで迎え撃ち倒すと、周囲を警戒しながらも美咲を振り返った。
美咲が事務所を飛び出した後、八雲も慌ててその後を追った。彼女の姿が見える範囲に少しずつ異能を使って移動を繰り返していたが、あまりにも早い美咲のスピードに途中で彼女を見失ってしまう。何とか怪異の声を耳にして見つけたものの、彼女は既に頭から血を流していた。
怪異はあと二体、今し方美咲を上空から狙った鳥形と獣型がもう一体だ。先程倒した人型の怪異が彼らを率いていたようで、統率を失った二体の怪異は本能で二人に一気に襲い掛かってくる。
「上を頼む」
「……は、はい!」
八雲の指示に戸惑ったように返事をした美咲は、獣型の怪異を気にしながらも上空に意識を集中させる。二人に向かって急降下する怪異に、美咲は狙いを定めて正確に薙刀を突き出した。
ピギィ、と甲高い鳥の悲鳴が響くと、八雲も倒し終えていたのか夜の町にようやく静寂が戻った。
「悪い。俺は菜月ちゃんのように怪我を治す力はないんだ」
「……いえ、ありがとうございました」
頭の怪我を見て眉を顰めた八雲は、そう言いながらハンカチを取り出す。美咲が制止する間もなく彼女の顔に付いた血を拭った彼は「早く応急処置しないとな」と美咲の手を掴んだ。
「――え」
「事務所は……この辺、だよな」
一瞬にして目の前の景色が変わった美咲が見たのは、さきほど飛び出した事務所の一室。驚いている彼女を気にした様子もなく「救急箱ってどこにある?」と尋ねた八雲に、美咲は困惑しながらも戸棚を指で指し示す。
「……これが、九十九さんの異能ですか」
「ああ。好きな場所に不法侵入し放題だ」
先ほどの自分の行動を揶揄するようにそう口にした八雲は、美咲をソファに座らせて手当を始める。
「すみません」
「俺が駆けつけるのが遅かった所為だしな。これくらいは当然だ」
「……違います、私が弱かったから」
何度も何度も謝り続ける美咲の姿に、八雲は訝しげに彼女を窺う。怪我の手当をするくらいで何故こんなに彼女は苦しそうな顔をしているのだろうか。
「しかし、複数の怪異を一人で相手にするのは危険だろう? 他のやつ……所長とか呼ぼうと思わなかったのか?」
「……」
「まあ、あんまり仲良さそうではなかったが……あいつの娘だっているだろうに。無理すると命に関わることなんだからな?」
「……来ませんよ」
「ん?」
「所長も莉奈さんも、怪異とは戦いません。だから私がこの町を守らないと……」
自分に言い聞かせるように、震える声で呟く美咲の手がまたチョーカーに触れる。
「私が、やらないと……でも、一人じゃもう、限界、なんです」
九十九さん、と彼を呼ぶ美咲の目から堪え切れなかった涙が零れ落ちた。ソファの上で固く握り込まれた拳の上に何度も何度も雫が落ち、彼女は縋るように弱々しい力で八雲の服の袖を掴んだ。
「あなたに頼むのは、お門違いだと、分かっているんです。……けど、お願い、です」
助けて下さい、と静寂に包まれる事務所の中でも殆ど消え入りそうな声で、彼女は懇願した。




