第九話 知らない
野崎健一、四十九歳。父から継いだ「野崎印刷」の社長。妻の智恵、四十八歳。従業員三人。町内会報、飲食店のメニュー、地域のチラシ――地道な仕事を続けてきた小さな印刷会社だった。
コロナ禍で落ち込んだ受注は、なかなか元に戻らなかった。そこへ、紙代、インク代、電気代が次々に値上がりした。それでも野崎は、従業員を切らなかった。給料だけは、遅らせなかった。
その結果、会社負担分を含む厚生年金保険料と健康保険料――社会保険料の滞納が、約十か月分、二百八十万円ほどに膨らんでいた。延滞金も、じわじわと積み重なっていた。
「社員の給料だけは、遅らせたくなかったんです」
野崎は、それだけを繰り返した。
◆
黒瀬税務会計事務所を訪ねた野崎は、督促状の束と、決算書、預金通帳の写しを机に置いた。
「先生、これ……もう駄目ですよね」
黒瀬は、それを一枚ずつ確認していった。決算書、預金残高、売掛金、給与台帳。
「社会保険料も、払わなくていい金ではありません」
「分かってます。ただ……」
野崎は、少し言葉に詰まった。
「機械を売るしか――」
「売らないでください」
野崎が、顔を上げた。
「え?」
黒瀬は、もう受話器を取っていた。
「まだ、やることがあります」
◆
「換価の猶予は、申請できる期間が決まっています」
黒瀬は、督促状を日付順に並べ直していた。
「納期限から、六か月。古い四か月分は、もう間に合わない」
野崎の顔から、血の気が引いた。
「古い分が残っていると、新しい分の申請も通りません。古い分は、職権での猶予を求めます。両方、同時に出します」
「間に合うんですか」
「残りのうち、いちばん古いものは――」
黒瀬は、壁のカレンダーに目をやった。
「あさってまでです」
◆
「そんな制度、知りませんでした」
野崎が、呟くように言った。
「そうでしょうね」
「年金事務所で、教えてくれなかったんです」
黒瀬は、一瞬だけ、手を止めた。それだけだった。すぐに、また書類に目を戻した。
「制度はあります」
「でも、知らなかったら使えないじゃないですか」
「そうです」
黒瀬は、一拍おいてから続けた。
「制度はある。だが、知らなければ存在しないのと同じです」
野崎は、その言葉の意味を、うまく飲み込めないまま頷いた。
◆
翌日、黒瀬は、野崎の資金繰りと、今後の受注見込みを整理した資料を抱えて、年金事務所へ向かった。野崎も同席した。
担当者は、四十代の男だった。督促の経過を記したファイルを開き、野崎の顔を見るより先に、手元の日付を確かめた。
「野崎さん、率直に申し上げます」
担当者は、ファイルの一枚を指で押さえた。
「換価の猶予の申請は、納期限から六か月以内です。古い四か月分は、もう期限を過ぎています。過ぎた分を猶予する方法は、ありません」
野崎の顔が、青くなった。事務所で黒瀬から聞いた話と、同じだった。違うのは、ここが年金事務所の窓口で、相手がそれを当然のこととして告げていることだった。
「古い分が残っている限り、新しい分の申請も、お受けできません。まずは、滞納分を納めていただかないと」
担当者の声に、悪意はなかった。何十人、何百人に、同じことを告げてきた声だった。
黒瀬は、鞄を開いた。取り出したのは、付箋だらけの法令集だった。
パラッ。
「厚生年金保険法、第八十九条」
担当者が、黙った。
「保険料の徴収は、国税徴収の例による」
黒瀬は、もう一つ、付箋の貼られた頁を開いた。
「国税徴収法、第百五十一条。職権による換価の猶予に、申請の期限はありません」
「……それは」
「健康保険法にも、同じ定めがあります」
黒瀬は、法令集を開いたまま、机に置いた。
「申請ではありません。職権です。――あなた方の」
担当者は、開かれた頁に目を落とした。しばらく、何も言わなかった。
「古い分は、職権で。新しい分は、今日、申請します。両方、同時に」
黒瀬は、資料を差し出した。給与台帳、直近の受注状況、無理のない範囲での納付案が、細かく整理されていた。
「払わないとは言っていません。事業を止めずに払う方法を、相談しています」
担当者は、資料と法令集を、黙って見比べていた。
「……新しい分の申請期限、いちばん古いものは、あしたです」
「だから、今日来ました」
担当者は、小さく息を吐いた。それから、受付の印を手に取った。
「……古い分は、上と協議します。新しい分の申請は、このままお預かりします」
「お願いします」
黒瀬は、法令集を閉じた。
パタン。
野崎は、隣で、ただ呆然としていた。何十年も払い続けてきた保険料の、その法律の中に、こんな一行があったことを、今日まで誰も教えてくれなかった。
◆
しばらくして、期限に間に合った分は申請で、間に合わなかった古い分は職権で、それぞれ換価の猶予が認められた。分割での納付計画も固まった。印刷機を売る必要はなくなった。古い機械は、そのまま工場に残った。
「先生、ありがとうございました」
「払うものは、続きます」
黒瀬は、いつもと同じ調子で、それだけ答えた。
◆
翌朝。
ガタン、ガタン。
古い印刷機が、町内会の秋祭りのチラシを吐き出していく。
野崎が、刷り上がった一枚を手に取った。
妻の智恵が、傍らでそれを見て、小さく言った。
「間に合ったね」
「ああ」
完




