第十話 沈黙
宮原沙織、三十五歳。食品メーカーの事務職。独身。母の和枝、六十六歳と、たまに連絡を取り合っている。
父の達夫は、クリーニング店を畳んだあと、別の仕事に就いたが、三年前に亡くなった。以来、和枝は古い自宅で一人暮らしをしている。
実家は、元のクリーニング店だった。一階が店で、二階が住まい。店を畳んでから十四年、表のシャッターは一度も上がっていない。
◆
督促状を見つけたのは、沙織だった。
秋の連休に帰ったとき、印鑑を探して茶箪笥の引き出しを開けた。役所の封筒が、三通、輪ゴムでまとめて入っていた。固定資産税の督促状だった。金額は、二十万円ほど。
「なんで言わなかったの」
台所の和枝は、背中を向けたまま答えた。
「あんたに迷惑かけたくなかったから」
沙織は、それ以上、責められなかった。
引き出しの奥には、もう一つ、輪ゴムの束があった。父の古い手帳だった。何冊も、年ごとに重ねてある。
沙織は、何気なく一冊を開いた。几帳面な字で、集配の件数と、客の名前が並んでいる。父の字だった。
ある頁で、手が止まった。
――税務署、黒瀬さん来店。
その下に、小さく書き添えてあった。
――九月末まで、待ってもらえないか。
その年の手帳は、十月の途中で終わっていた。そこから先は、白い頁が続いていた。
沙織は、その一冊だけを、自分の鞄に入れた。
◆
職場の先輩が、税金に強い先生の噂を教えてくれた。駅前の商店街を抜けた先、古い雑居ビルの二階。愛想はないが、腕は確かだという。
「宮原沙織です。母の固定資産税のことで……」
黒瀬は、いつも通り、資料に目を落とした。
住所を見た瞬間、その指が、わずかに止まった。
十四年前、あるクリーニング店があった住所と、同じだった。
「お父様は」
「亡くなりました。三年前に」
「……そうですか」
黒瀬は、それだけ言った。沙織は、その様子に、特に何も感じなかった。
◆
看板の名前は、ここへ来る前から、どこかで引っかかっていた。黒瀬という名字は、珍しくはない。だから、深くは考えなかった。
相談が進むうち、沙織はふと、机の上の名刺に目を留めた。
「黒瀬零司」
引っかかっていたものが、はっきりと形になった。
「先生」
「はい」
「昔、税務署にいました?」
「いました」
沙織は、しばらく黙っていた。それから、鞄から父の手帳を出した。頁を開いて、黒瀬の前に置いた。
――税務署、黒瀬さん来店。
――九月末まで、待ってもらえないか。
黒瀬は、その字を見た。
長いこと、見ていた。
「父の店に来た人……ですよね」
黒瀬は、何も言わなかった。だが、その沈黙自体が、答えだった。
◆
「父、先生のこと覚えてましたよ」
黒瀬は、黙っていた。
「店を畳んでからも、たまに言ってました」
沙織は、少し間を置いた。
「『あの人は悪い人じゃなかった』って」
黒瀬は、何も言わなかった。
「でも、一回だけ言ったことがあります」
黒瀬は、沙織を見た。
「『何か方法があったんじゃないかな』って」
黒瀬は、それに対しても、何も言わなかった。
沙織は、手帳を閉じた。それ以上、深追いしなかった。
「私には、分かりません。税金のことなんて」
沙織は、そう言うと、母の資料へと視線を戻した。
「母のこと、お願いできますか」
「……分かりました」
黒瀬は、それだけ答えた。
◆
沙織が帰ったあと、事務所には、黒瀬一人が残った。
夜、誰もいなくなった部屋で、黒瀬は机の引き出しを開けた。
宮原達夫。
古い紙を、しばらく見つめた。
そして、引き出しを閉じた。
◆
その夜遅く、事務所の電話が鳴った。
「黒瀬税務会計事務所です」
「先生。母の書類、もう一つ見つかりました」
「分かりました」
「明日、持っていきます」
「はい」
少しの沈黙があった。
「先生」
「はい」
「父のことは……また今度、聞かせてください」
黒瀬は、答えなかった。
電話の向こうで、沙織も、それ以上は聞かなかった。
「……はい」
完




