第十一話 ゼロ
減免の申請には、暮らしの実態を示す書類がいる。黒瀬は、それを自分の目で確かめたいと言った。
十四年ぶりに、黒瀬はその家の前に立った。
シャッターは、錆で色が変わっていた。看板の文字は、日に焼けて、もう半分しか読めない。
横の勝手口から、沙織が顔を出した。
「どうぞ。母が、待ってます」
◆
和枝は、小柄な女だった。白髪をきちんとまとめ、茶の間の座布団の脇に、膝をそろえて座っていた。
「わざわざ、すみません」
和枝は、そう言って頭を下げた。顔を上げてから、黒瀬の顔を、しばらく見ていた。
何も言わなかった。
「お茶、淹れますね」
和枝は、台所へ立った。
黒瀬は、年金の通知と預金通帳を確かめ、電気代とガス代の明細を一枚ずつめくった。必要なものは、すべて揃っていた。
「下も、見せていただけますか」
沙織が、店へ続く戸を開けた。
薄暗い作業場だった。段ボールと、古い扇風機と、丸めたビニールの束。床のコンクリートに、四角い跡が残っていた。ボルトを抜いた穴が、四つ。
プレス機が据えてあった場所だった。
黒瀬は、その跡の前に立った。
しばらく、動かなかった。
背中で、和枝の声がした。
「主人が、毎朝そこに立ってました」
それだけだった。
◆
茶の間に戻ると、湯呑みが置かれていた。
十四年前、宮原の店で、黒瀬は一度も茶を受けなかった。
黒瀬は、湯呑みを両手で取った。
ぬるくなるまで、ゆっくり飲んだ。
◆
宮原沙織が、母・和枝の資料を抱えて、再び黒瀬税務会計事務所を訪れたのは、初めての相談から一か月ほど経った頃だった。
今年度分の減免は、認められていた。滞納していた二十万円は、前の週に、沙織が窓口で一度に納めていた。母には、あとで話すと言った。
「これで、お母様の件は終わりです」
黒瀬は、書類を閉じた。
パタン。
そして、机の引き出しから、朱肉と印を取り出した。
和枝の書類の一番上に、赤い判が押された。
「済」
沙織は、その朱印を見つめた。
「これ、何ですか」
「終わった案件です」
沙織は、それ以上、聞かなかった。
◆
沙織が席を立ち、鞄を持ち直したところで、黒瀬が口を開いた。
「宮原さん」
沙織が、振り返った。
「お父さんの記録は、滞納残高ゼロで終わっています」
「……」
「書類の上では」
黒瀬は、少し間を置いた。
「お父さんの店には、方法がありました」
沙織の動きが、止まった。
「売るのを待つ制度です。必ず認められたとは言えません。ただ、九月末に入金があることは、分かっていた。待てる可能性はあった」
「先生は、それを知ってたんですか」
「知っていました」
沙織は、しばらく黙っていた。
「じゃあ、どうして父に――」
言いかけて、止まった。
「俺は徴収する側だった」
黒瀬は、静かに続けた。
「それを理由にした」
部屋の中に、長い間ができた。
「止められなかったんじゃない」
一拍。
「……止めなかったんだ、俺は」
◆
沙織は、長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。
「父は、そのことを知ってたんでしょうか」
「分かりません」
「方法があったこと」
「……おそらく、知らなかったと思います」
沙織は、少し黙った。
「じゃあ、父は最後まで、知らなかったんですね」
黒瀬は、それに答えなかった。
沙織は、それ以上、何も聞かなかった。
「母のこと、ありがとうございました」
沙織は、それだけ言って、事務所を出ていった。父については、最後まで、何も言わなかった。
◆
事務所に一人残った黒瀬は、机の引き出しを開けた。
宮原達夫。
古い紙を、しばらく見つめた。
机の上には、まだ朱肉と「済」の印が置かれたままだった。
黒瀬は、それを見た。
だが、押さなかった。
そして――
黒瀬は、古い紙を、引き出しには戻さなかった。
机の上に、置いた。
それだけだった。
完




