最終話 済
坂井直人、四十五歳。「坂井製麺」三代目。妻の恵、四十三歳。高校生の息子・陸、十六歳。家族のほかに、従業員が二人。
地元の食堂やラーメン店に、うどんと中華麺を卸してきた。祖父の代から続く、小さな製麺所だった。
小麦粉、電気、ガス、包装資材――原材料費は、次々に値上がりした。だが、長年の付き合いのある取引先には、一気に値上げを求めることができなかった。そこへ、主要取引先の一軒が店を閉じた。売掛金、約二百万円が回収不能になった。
消費税を中心に、滞納は約四百八十万円。延滞税を含めれば、もっと膨らんでいた。
差押えの対象になったのは、父の代から使っている古い製麺機だった。中古市場に出せば、大した値段にはならない。だが、坂井製麺にとっては、心臓そのものだった。
◆
知人の紹介で、坂井は黒瀬税務会計事務所を訪ねた。黒瀬は、帳簿と滞納の状況を、いつも通り、一枚ずつ確認していった。
ある書類で、手が止まった。
「これは」
「ああ、それは……市の給食センターです。来年の四月から、うちの麺を使ってもらえることになって。決まったのは、先月で」
「入金は」
「五月からです。でも、それまで機械がもつかどうか――」
黒瀬は、しばらく、その契約書の写しから目を離さなかった。
入金の見込み。その日付。
十四年前、同じような紙を、黒瀬は一度、見たことがあった。
「坂井さん」
坂井が、顔を上げた。まだ、何も尋ねていなかった。
「方法があります」
黒瀬は、坂井が聞く前に、そう言った。
「売るのを待ってもらう制度です。換価の猶予。申請の期限に間に合う分と、間に合わない分がある。両方、手を打ちます」
「必ず、認められるんですか」
「いいえ」
「税金は、なくなりますか」
「なくなりません」
「じゃあ、結局払うんですよね」
「払います」
坂井は、少し肩を落とした。
黒瀬は、そこで、もう一つの資料を出した。製麺所を畳み、資産を整理して滞納を精算する場合の試算だった。
「こちらの道も、あります」
「先生なら、どうします?」
「私が決めることではありません」
黒瀬は、二つの資料を、坂井の前に並べた。
「選ぶのは、あなたです」
坂井は、しばらく、その二枚の紙を見比べていた。
「ただし今回は――知らなかった、とは言わせない」
黒瀬は、それだけ付け加えた。
坂井は、資料を持ち帰った。
◆
その夜、止まったままの製麺機の前で、坂井は息子に聞いた。
「お前、この店、継ぐ気あるか」
「分かんない」
陸は、素っ気なく答えた。坂井は、小さく笑った。
「そうか」
少し間が空いてから、陸が続けた。
「でも、なくなるのは嫌だ」
◆
翌朝、坂井は事務所に電話をかけた。
「先生」
「はい」
「やります」
「分かりました」
「店、残したいです」
「では、始めましょう」
◆
黒瀬は、税務署への申請書類を整え、資金繰り表、これまでの分割納付の記録、取引先の閉店を示す資料、そして給食センターとの契約書の写しを揃えた。手続きは、これまでの案件と、同じように進んでいった。派手な場面は何もなかった。ただ、必要な書類が、必要な場所に、一つずつ収まっていった。
換価の猶予は、認められた。翌年、期間の延長も認められた。五月から入り始めた給食センターの代金が、月々の納付を支えた。
◆
二年後。
最後の納付を終え、製麺機の差押えも解除されたあと、坂井は事務所を訪れた。
「先生、終わりました」
黒瀬は、書類を確認した。
書類を閉じる。
パタン。
朱肉。
「済」
「これ、何です?」
「終わった案件です」
黒瀬は、それだけ答えた。
坂井は、机の端に、もう一枚、紙が置かれているのに気づいた。黄ばんだ古い紙だった。判は、押されていない。
「先生、そっちは」
黒瀬は、その紙を見た。
長い間があった。
「終わらない案件です」
◆
翌朝。
坂井製麺。
製麺機が動く。
ゴウン、ゴウン。
白い麺が、一定の幅で切られて、落ちていく。
学校へ行く前の陸が、工場を覗いた。
「親父」
「なんだ」
「卒業したらさ」
坂井が、振り返った。
陸は、少し考えてから、首を振った。
「……いや、まだいい」
陸は、そのまま出ていった。坂井は、追わなかった。
また、製麺機に目を戻す。
ゴウン、ゴウン。
完




