第八話 職権
十四年前。
黒瀬零司は、税金を取っていた。
南浜税務署、徴収部門。国税の仕事に就いて十五年目、三十八歳だった。滞納者を怒鳴らない。馬鹿にしない。必要以上に追い詰めない。同僚からも、滞納者からも、「まともな徴収官」だと思われていた。
黒瀬自身、そう思っていた。
「俺の仕事は徴収だ」
それが、黒瀬の中にある線だった。線の内側では、誠実に、丁寧に仕事をする。線の外へは、出ない。
◆
宮原達夫、五十四歳。父親から継いだクリーニング店を、妻の和枝と二人、パートを一人雇って営んでいた。娘は大学生。
近くに大型チェーンのクリーニング店が進出してから、売上は少しずつ落ちていた。そこへ、業務用の洗濯機とプレス機が相次いで故障した。修理と部分交換で、まとまった出費が出た。追い打ちをかけるように、取引先だったホテルからの支払いが、数か月遅れた。
所得税、消費税。滞納が積み重なった。
黒瀬が担当としてこの案件を持ったのは、督促を重ねても納付がないまま、半年以上が経過した頃だった。
◆
初めて店を訪ねたのは、梅雨の明けた七月だった。
ガラス戸を開けると、蒸気と糊の匂いが顔に当たった。店の奥で、宮原がワイシャツの襟にアイロンを当てていた。白い湯気が、細く立ち上る。
「税務署の黒瀬です」
宮原は、アイロンを置いた。前掛けで手を拭き、深く頭を下げた。
「すみません。払う気は、あるんです」
棚には、ビニールに包まれたシャツが、名札をつけて並んでいた。近所の会社員、商店の主人、病院の事務員。どの一枚も、襟の立ち方まで揃っていた。
奥の作業場から、若い娘が顔を出した。
「お父さん、配達の分、これでいい?」
「ああ。お客さんだ、奥にいなさい」
娘は、黒瀬に小さく会釈をして、引っ込んだ。大学の夏休みで、店を手伝っているらしかった。
◆
「少し待ってもらえませんか」
宮原は、狭い店の奥で、もう一度頭を下げた。
「店さえ動けば、払えます」
宮原は、一枚の紙を差し出した。ホテルの経理部から届いた、支払予定の通知だった。
――九月末日、全額お支払いいたします。
黒瀬は、帳簿と、差押えの対象になっているプレス機の見積もりと、その通知を、無言で見比べていた。九月末に入金があれば、資金繰りは持ち直す。数字の上では、その可能性が見えた。
帰りぎわ、宮原が黒瀬の首元を見た。
「黒瀬さん、そのシャツ」
「何か」
「襟が、寝てます」
黒瀬は、思わず襟に手をやった。
「よかったら、次に来るとき持ってきてください。お代はいりません」
「受け取れません」
「でしょうね」
宮原は、少しだけ笑った。それだけだった。
◆
黒瀬は、上司の杉浦正臣の席に、資料を持っていった。杉浦は統括国税徴収官で、部下の面倒見がよく、法律にも詳しい男だった。悪人ではなかった。
「換価を、待てる可能性があります。九月末に、ホテルからの入金が見込めます」
「見込みか」
「はい」
杉浦は、書類を見た。
「職権でか」
「はい」
「本人から、何か言ってきてるのか」
「待ってほしい、と」
杉浦は、書類を閉じた。
「黒瀬」
一拍おいて、続けた。
「俺たちは、徴収する側だ」
命令ではなかった。ただの一言だった。だが、その一言だけで、黒瀬は自分の中の線を、もう一度確かめた。
◆
処分の日が近づいたある日、黒瀬は現場確認のために、宮原のクリーニング店を訪れた。
「黒瀬さん」
宮原が、店の奥から出てきた。
「何か……方法、ないんですか」
黒瀬は、宮原の顔を見た。
「納期限は、過ぎています」
黒瀬は、それだけ答えた。
嘘ではなかった。
ただ、言わなかったことが、一つあった。
◆
プレス機と洗濯機が運び出されていく日、宮原は、それを黙って見ていた。何かを言いかけて、やめた。黒瀬は、その場にはいなかった。書類の上でだけ、処分は進んでいった。
◆
十月の初め、宮原が税務署の窓口に来た。
公売で足りなかった分を、一度に納めに来たのだった。窓口で受け取ったのは、黒瀬だった。
「ホテルの金、入りました」
宮原は、封筒をカウンターに置いた。九月の末日に入った、と言った。予定の日付、そのままだった。
黒瀬は、領収証書を書いた。判を押し、宮原へ渡した。
「店は、閉めることにしました」
宮原は、それを受け取ると、深く頭を下げた。七月に、初めて会った日と同じ角度だった。
◆
「黒瀬、終わったか」
杉浦が、席から声をかけた。
「はい」
黒瀬は、宮原達夫の徴収記録を閉じた。
滞納残高、ゼロ。
書類の上では、終わっていた。
◆
現在。
黒瀬税務会計事務所。夜、誰もいなくなった部屋で、黒瀬は机の引き出しを開けた。
古い一枚の書類が、そこにあった。
宮原達夫。
黒瀬は、それをしばらく見つめた。
机の端には、朱肉と、「済」の印が置かれていた。
黒瀬は、印に触れなかった。
◆
翌朝、黒瀬は台所の隅で、自分のワイシャツにアイロンを当てた。
糊を吹く。襟を立てる。
十四年、毎朝そうしている。
完




