↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
義賊税理士 ZERO  作者: 八雲 海


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/13

第八話 職権

十四年前。

 黒瀬零司は、税金を取っていた。

 南浜税務署、徴収部門。国税の仕事に就いて十五年目、三十八歳だった。滞納者を怒鳴らない。馬鹿にしない。必要以上に追い詰めない。同僚からも、滞納者からも、「まともな徴収官」だと思われていた。

 黒瀬自身、そう思っていた。

「俺の仕事は徴収だ」

 それが、黒瀬の中にある線だった。線の内側では、誠実に、丁寧に仕事をする。線の外へは、出ない。

◆

 宮原達夫《みやはら・たつお》、五十四歳。父親から継いだクリーニング店を、妻の和枝《かずえ》と二人、パートを一人雇って営んでいた。娘は大学生。

 近くに大型チェーンのクリーニング店が進出してから、売上は少しずつ落ちていた。そこへ、業務用の洗濯機とプレス機が相次いで故障した。修理と部分交換で、まとまった出費が出た。追い打ちをかけるように、取引先だったホテルからの支払いが、数か月遅れた。

 所得税、消費税。滞納が積み重なった。

 黒瀬が担当としてこの案件を持ったのは、督促を重ねても納付がないまま、半年以上が経過した頃だった。

◆

 初めて店を訪ねたのは、梅雨の明けた七月だった。

 ガラス戸を開けると、蒸気と糊の匂いが顔に当たった。店の奥で、宮原がワイシャツの襟にアイロンを当てていた。白い湯気が、細く立ち上る。

「税務署の黒瀬です」

 宮原は、アイロンを置いた。前掛けで手を拭き、深く頭を下げた。

「すみません。払う気は、あるんです」

 棚には、ビニールに包まれたシャツが、名札をつけて並んでいた。近所の会社員、商店の主人、病院の事務員。どの一枚も、襟の立ち方まで揃っていた。

 奥の作業場から、若い娘が顔を出した。

「お父さん、配達の分、これでいい?」

「ああ。お客さんだ、奥にいなさい」

 娘は、黒瀬に小さく会釈をして、引っ込んだ。大学の夏休みで、店を手伝っているらしかった。

◆

「少し待ってもらえませんか」

 宮原は、狭い店の奥で、もう一度頭を下げた。

「店さえ動けば、払えます」

 宮原は、一枚の紙を差し出した。ホテルの経理部から届いた、支払予定の通知だった。

 ――九月末日、全額お支払いいたします。

 黒瀬は、帳簿と、差押えの対象になっているプレス機の見積もりと、その通知を、無言で見比べていた。九月末に入金があれば、資金繰りは持ち直す。数字の上では、その可能性が見えた。

 帰りぎわ、宮原が黒瀬の首元を見た。

「黒瀬さん、そのシャツ」

「何か」

「襟が、寝てます」

 黒瀬は、思わず襟に手をやった。

「よかったら、次に来るとき持ってきてください。お代はいりません」

「受け取れません」

「でしょうね」

 宮原は、少しだけ笑った。それだけだった。

◆

 黒瀬は、上司の杉浦正臣《すぎうら・まさおみ》の席に、資料を持っていった。杉浦は統括国税徴収官で、部下の面倒見がよく、法律にも詳しい男だった。悪人ではなかった。

「換価を、待てる可能性があります。九月末に、ホテルからの入金が見込めます」

「見込みか」

「はい」

 杉浦は、書類を見た。

「職権でか」

「はい」

「本人から、何か言ってきてるのか」

「待ってほしい、と」

 杉浦は、書類を閉じた。

「黒瀬」

 一拍おいて、続けた。

「俺たちは、徴収する側だ」

 命令ではなかった。ただの一言だった。だが、その一言だけで、黒瀬は自分の中の線を、もう一度確かめた。

◆

 処分の日が近づいたある日、黒瀬は現場確認のために、宮原のクリーニング店を訪れた。

「黒瀬さん」

 宮原が、店の奥から出てきた。

「何か……方法、ないんですか」

 黒瀬は、宮原の顔を見た。

「納期限は、過ぎています」

 黒瀬は、それだけ答えた。

 嘘ではなかった。

 ただ、言わなかったことが、一つあった。

◆

 プレス機と洗濯機が運び出されていく日、宮原は、それを黙って見ていた。何かを言いかけて、やめた。黒瀬は、その場にはいなかった。書類の上でだけ、処分は進んでいった。

◆

 十月の初め、宮原が税務署の窓口に来た。

 公売で足りなかった分を、一度に納めに来たのだった。窓口で受け取ったのは、黒瀬だった。

「ホテルの金、入りました」

 宮原は、封筒をカウンターに置いた。九月の末日に入った、と言った。予定の日付、そのままだった。

 黒瀬は、領収証書を書いた。判を押し、宮原へ渡した。

「店は、閉めることにしました」

 宮原は、それを受け取ると、深く頭を下げた。七月に、初めて会った日と同じ角度だった。

◆

「黒瀬、終わったか」

 杉浦が、席から声をかけた。

「はい」

 黒瀬は、宮原達夫の徴収記録を閉じた。

 滞納残高、ゼロ。

 書類の上では、終わっていた。

◆

 現在。

 黒瀬税務会計事務所。夜、誰もいなくなった部屋で、黒瀬は机の引き出しを開けた。

 古い一枚の書類が、そこにあった。

 宮原達夫。

 黒瀬は、それをしばらく見つめた。

 机の端には、朱肉と、「済」の印が置かれていた。

 黒瀬は、印に触れなかった。

◆

 翌朝、黒瀬は台所の隅で、自分のワイシャツにアイロンを当てた。

 糊を吹く。襟を立てる。

 十四年、毎朝そうしている。

完

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。