第六話 相続
長谷川美紀、四十六歳。会社員。独身。父の修一が七十八歳で亡くなったのは、桜が散り始めた頃だった。母は八年前に他界している。一人娘の美紀が、唯一の相続人だった。
修一が五十年以上暮らした土地と、古い木造の家。地価の上がった地域にあり、土地の評価額は決して小さくなかった。一方、父が遺した預金は、葬儀費用などを除けば数百万円程度だった。
財産はある。だが、現金がない。
不動産会社の担当者は、美紀にこう言った。
「土地を売れば、相続税は問題なく払えますよ」
「税金を払うために、父の家を売るんですか」
美紀は、それだけ答えて、電話を切った。
相続税の申告と納付には期限がある。死亡を知った日の翌日から、十か月。美紀は、知人の紹介で、黒瀬税務会計事務所を訪ねた。
◆
「先に相談した会計事務所で、試算はしてもらいました」
美紀は、分厚い試算書を机に置いた。黒瀬は、それを一枚ずつめくっていった。
「この土地、誰が住んでいました」
「父です」
「あなたは」
「私は――」
美紀は、少し言葉に詰まった。
「二十代で家を出てから、今までずっと一人暮らしです」
「今の家は、賃貸ですか」
「はい」
「いつから」
「十二年くらいです」
「その前は」
「別の賃貸です」
「持ち家を持ったことは」
「ありません」
黒瀬は、そこで初めて顔を上げた。
「賃貸借契約書、お持ちですか」
美紀は、その質問の意味が分からなかった。だが、黒瀬の目には、何かを見つけたときの、わずかな鋭さがあった。
◆
次の面談までに、黒瀬は美紀に、賃貸借契約書、戸籍の附票、現在住んでいる部屋の登記事項証明書――自分がその部屋を所有していないことを示す書類を、揃えさせた。
「こんなに細かく、何を調べているんですか」
「この計算、土地をそのまま評価しています」
「間違ってるんですか」
「間違いではありません」
「え?」
「使っていない特例があります」
黒瀬は、揃った書類を、一つずつ確認していった。
「お父様に、配偶者はいません。同居していた親族もいません。あなたは相続開始前の三年間、ご自身の持ち家にも、配偶者の持ち家にも、親族の持ち家にも住んでいない。今住んでいる部屋を、過去に所有したこともない」
黒瀬は、それを条件のように、一つずつ数えた。
「対象になります」
「何にですか」
「小規模宅地等の特例です。三百三十平方メートルまで、評価額を八割減額できます」
美紀は、その数字の意味を、すぐには理解できなかった。
「じゃあ、税金はなくなるんですか」
「いいえ」
黒瀬は、静かに首を振った。
「土地の評価は下がります。それでも、税額は残ります」
「まだ、払えません」
「分かっています」
黒瀬は、それだけ言うと、別の資料を取り出した。
「延納という制度があります」
「延納?」
「一括での金銭納付が困難な場合、要件を満たせば、年ごとに分けて納めることができます」
「この家は、売らなくていいんですか」
「そのための方法を考えます」
黒瀬は、それ以上、多くを語らなかった。
◆
「じゃあ、父の家に住まないといけないんですか」
美紀が聞くと、黒瀬は首を振った。
「いいえ」
「ただし」
「申告期限までは、売らないでください」
美紀は、黙って頷いた。
◆
その週末、美紀は一人で、父の家の引き戸を開けた。
ガラガラと、重たい音がした。子どもの頃から、この戸は一度で開いたためしがない。
家の中は、葬儀の日のままだった。茶の間の座卓に、父の老眼鏡が畳んで置いてある。台所の食器棚には、母が選んだ揃いの茶碗が、八年前と同じ順番で並んでいた。
柱の鉛筆の傷の前で、美紀は足を止めた。
一番下の線に、父の字で「三歳」とある。一番上の線は「十八歳」。そこから上には、何も書かれていない。家を出た年だった。
美紀は、その線を、指でなぞった。
十八の自分の背は、今の自分の目の高さと、ほとんど変わらなかった。家を出てから、背は伸びなかった。伸びたのは、帰らなかった年数だけだった。
帰り際、引き戸を閉めようとして、また引っかかった。
美紀は、二度目で、閉めた。
◆
延納の相談で税務署を訪れた日、応対に出た担当者の上司らしい、年配の職員が、黒瀬を見て、ふと足を止めた。
「……黒瀬さん?」
美紀が、黒瀬を見た。
「やっぱりそうだ。黒瀬さんですよね」
「お久しぶりです」
黒瀬は、短くそう答えた。
「まさか、あなたが納税者側に座ってるとは思いませんでした」
その一言に、美紀は何か引っかかるものを感じたが、その場では聞けなかった。
◆
税務署からの帰り道、美紀は、思い切って聞いた。
「先生、さっきの人……知り合いなんですか」
「昔の同僚です」
「税務署の?」
「そうです」
美紀は、少し考えてから、もう一歩踏み込んだ。
「先生、何をしてたんですか」
黒瀬は、歩調を変えずに答えた。
「税金を取っていました」
それだけだった。美紀は、それ以上は聞かなかった。聞いてはいけない気がした。
◆
しばらくして、延納の許可が下りた。小規模宅地等の特例を適用した申告も終わり、年ごとの納付計画が、美紀の手元に残った。
「先生、ありがとうございました」
「払うものは、まだ残っています」
黒瀬は、それだけ言った。
◆
その夜、美紀の部屋のテーブルには、不動産会社から届いた「不動産査定書」が置かれたままだった。
美紀は、それをしばらく見つめた。
父が柱につけた、鉛筆の傷。母が選んだ、古い食器棚。何十年も変えていない、玄関の引き戸。
美紀は、査定書を封筒に戻した。
そして、引き出しへ。
完




