第五話 質問
藤堂圭介、三十五歳。フリーランスの商業カメラマン。企業の商品撮影、飲食店のメニュー写真、結婚式の記録、雑誌のグラビア――仕事は多岐にわたる。自宅マンションの一室を仕事場にし、独身で、機材にはそれなりの金をかけてきた。
三年前、いちばんの得意先だった広告制作会社が、撮影をすべて社内で済ませるようになった。仕事は半年近く途切れた。家賃が払えなくなったとき、黙って金を振り込んでくれたのは、群馬で一人暮らしをしている母だった。圭介は、その金がどこから出てきたのか、聞かなかった。聞けば、返せない額だと知ってしまう気がした。
税務署から「調査を行いたい」という事前通知の電話があったのは、確定申告を終えて半年ほど経った頃だった。
「俺、何かやったんでしょうか」
圭介は、紹介された黒瀬税務会計事務所を訪ねるなり、椅子に座る前からそう漏らした。
「調査が来たことと、脱税したことは同じではありません」
黒瀬は、顔も上げずに言った。
「経費については、心当たりが……カメラとかレンズとか、取材の飲食代とか。仕事用と私用のカードが、たまに一緒になってて」
「見せてください」
圭介は、クレジットカードの明細と、確定申告書の控えを机に置いた。黒瀬は、それを一枚ずつ、無言で確認していった。
「調査の対象になるのは、事業に関連する部分です。まずは、こちらで一緒に整理します」
◆
調査の当日、藤堂宅のダイニングテーブルに、圭介と黒瀬、そして税務署の調査官が向かい合った。調査官は、几帳面な印象の中年男性だった。
通帳の写しを確認していた調査官の手が、ある入金記録で止まった。
「この入金は?」
「母です。家賃が払えなかった頃に、借りました」
「お母様の通帳も、確認できますか」
黒瀬は、それには何も言わなかった。圭介が用意していた母親名義の通帳の写しを、そのまま調査官に渡させた。
調査官は、その通帳を確認し、しばらく頷いていたが、やがて顔を上げた。
「お母様の他の口座も、全部お願いできますか。それから、お母様の年金の入金記録も」
圭介は、息を呑んだ。
母の年金。月にいくら入って、いくら残るのか。圭介自身、知らなかった。知らないまま、借りていた。それを、知らない男の前で、紙にして並べられる。
ここで、黒瀬が初めて顔を上げた。
「何を確認するためですか」
「資金の流れを確認するためです」
「藤堂さんへの入金元の確認なら、この口座で足ります」
黒瀬の声は、いつもと変わらなかった。だが、その静けさの中に、何かが一段、変わった気配があった。
「母親の年金記録まで必要な理由を、説明してください」
調査官は、少し戸惑った様子を見せた。
「先生、こちらには質問検査権があります」
黒瀬は、そこで初めて、傍らの鞄を開いた。取り出したのは、法令集ではなかった。付箋の貼られた、判例の資料だった。
パラッ。
「知っています」
黒瀬は、ページを指で押さえた。
「最高裁、昭和四十八年七月十日」
調査官の目が、一瞬、止まった。
「客観的な必要性」
黒瀬は、それだけ言った。
「それと、社会通念上相当な限度です」
「……必要性は、あると判断しています」
「だから、その必要性を聞いています」
部屋の空気が、少しだけ張り詰めた。圭介は、二人の間で、ただ息を殺していた。
「拒否しているんじゃない。理由を聞いているんです」
黒瀬は、それ以上、何も付け加えなかった。ただ、資料のページを開いたまま、調査官の答えを待った。
調査官は、しばらく手元の書類を見直していた。やがて、小さく息を吐いた。
「……分かりました。お母様の年金記録までは、求めません」
黒瀬は、勝ち誇るふうでもなく、小さく頷いただけだった。判例資料を閉じる。
パタン。
◆
調査は、その後、事業に関連する記録に絞って進められた。圭介は、少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
だが、数日後、調査の結果が出た。
「先生。結局、払うんですか」
「払います」
黒瀬は、修正が必要な数字を、静かに指し示した。私用の飲食代の一部が、経費として計上されていた。悪意はなかったが、事実として誤りだった。
「守ってくれたのに?」
黒瀬は、その数字から目を離さなかった。
「それとこれは、別です」
圭介は、それ以上、何も言えなかった。
◆
事務所を出た夜、圭介は、機材を片付けながら、母親に電話をかけた。
「母ちゃん」
「なに」
「前に借りた金、少しずつ返すよ」
「そんなの、いつでもいいよ」
圭介は、少し笑った。
「税金もあるから、ほんとに少しずつな」
電話の向こうで、母親も小さく笑った。
圭介は通話を切り、テーブルの上に置いてあった母親の通帳の写しを手に取った。
封筒に戻し、引き出しにしまった。
完




