第四話 差押え
柴田清三、七十四歳。妻の文子、七十二歳。二人で暮らす一戸建ては、築四十五年になる。清三が元タクシー運転手として働き、文子と一緒に少しずつ手を入れてきた家だった。
その家に、市役所から「差押予告書」が届いたのは、初冬のことだった。
「この家、取られるんですか」
清三は、文子に見せる前に、その紙を何度も読み返した。書かれている金額は、固定資産税と都市計画税の滞納分、約二十八万円。二年分ほどが積み重なっていた。
原因は、去年の秋、文子が体調を崩して入院したことだった。命に関わるような大病ではなかったが、入院は三か月近くに及んだ。差額ベッド代、毎日のタクシーでの見舞い、着替えや日用品――年金だけで暮らす二人にとって、その出費は決して小さくなかった。税金は、後回しにするしかなかった。
清三は、その紙を四つに折り、上着の内ポケットに入れた。文子には、その晩も、次の晩も、見せなかった。
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柴田家の相談は、隣に住む民生委員の紹介だった。
「柴田さん、いい先生を知ってますよ。黒瀬さんっていう税理士さん。前に、近所の商店の税金のことで助けてもらった人がいて」
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黒瀬税務会計事務所を訪ねた清三は、差押予告書を机に置いた。黒瀬は、それを一目見て、日付を確認した。
「先生、いつ差押えになるんでしょう」
「まだです」
「分かるんですか」
「この文面なら、次に来るのは――」
黒瀬は、日付を指でなぞりながら、短く告げた。
数日後、黒瀬が言った通りの書類が、柴田家に届いた。清三は、それを読み終えると、眼鏡を外し、しばらく卓の上に置いたままにした。
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黒瀬は、まず市役所の固定資産税課のホームページから、減免取扱要綱と申請書類を印刷してきていた。何枚もの付箋が、細かく貼られている。
「固定資産税には、減免があります」
「そんな話、役所では聞きませんでした」
「全国、同じではありません」
黒瀬は、印刷した紙を一枚、机に置いた。
「この市の条例と、取扱要綱を確認しました」
清三は、その紙を覗き込んだ。見慣れない役所の文書だったが、「特別の事情」「生活困窮」といった言葉が、確かに並んでいた。
「二十八万円、全部なくなるんでしょうか」
「いいえ」
清三の顔が、少し曇った。
「減免は、納期限の前に申し出た分にしか使えません。滞納している二十八万円には、使えない」
「じゃあ……」
「使えるのは、これから来る今年度の分です。滞納分は、徴収を待ってもらって、分けて払います」
「……払えるでしょうか」
黒瀬は、清三の年金通知と預金通帳の写しに、もう一度目を落とした。
「払える額にします」
◆
次の面談までに、黒瀬は清三に、年金額の分かる書類、預金残高、文子の入院にかかった費用の領収書、毎月の生活費が分かる家計簿を揃えさせた。清三と文子は、二人で古い電卓を片手に、何日もかけて数字を拾い集めた。
「こんなに細かく調べられるとは思わなかったねえ」
文子が、疲れた様子で言った。
「でも、先生が言うなら」
清三は頷いた。何をどう頼めばいいのかも分からなかったが、目の前の男が要求することだけは、間違っていない気がした。
◆
市役所の窓口には、黒瀬と清三の二人で向かった。担当職員は、中年の女性だった。物腰は柔らかいが、言うべきことは、はっきりと言う人だった。
「柴田さんのご事情は、お気の毒だと思います。ただ、減免は難しいと思います」
職員は、要綱の写しを一枚、机の上に置いた。
「減免の対象は、生活保護を受けている方と、それに準ずる方です。柴田さんは、年金の額から見て、どちらにも当たりません」
清三は、肩を落とした。やはり、そうなのか。役所の人間がそう言うなら、そうなのだろう。
「決まりですので」
職員は、申し訳なさそうに、それだけ付け加えた。
黒瀬は、自分の鞄から、同じ要綱を取り出した。付箋が何枚も貼られている。職員が出した一枚とは、厚みが違った。
「決まりなら、最後まで読みましょうか」
職員が、顔を上げた。
黒瀬は、要綱をめくった。一枚。もう一枚。最後の頁で、手を止めた。
「第三条、第六号」
黒瀬は、その一行に指を置いた。
「――前各号に掲げるもののほか、特別の事情があると市長が認める者」
職員は、黙って、自分の手元の写しをめくった。同じ頁で、手が止まった。
「病気や災害で、暮らしが急に立ち行かなくなった人のための号です。生活保護に準ずるかどうかは、問われていない」
黒瀬は、鞄から書類を取り出し、机に並べていった。年金額の通知。預金残高の推移。入院費用の明細。毎月の生活費の内訳。固定資産税額。
「妻の入院で、三か月。この家の暮らしが、その前とその後で、どう変わったか。判断する材料は、ここにすべてあります」
「先生、ここまで用意されたんですか」
「判断する材料がなければ、判断できないでしょう」
職員は、資料を一枚ずつ確認していった。入院の始まった月から、預金の残高が、坂を下るように減っている。しばらくして、職員は小さく息を吐いた。
「……第六号でしたら、今年度分の減免は、要綱の対象になります」
清三は、隣の黒瀬の横顔を見た。表情は、何も変わっていなかった。
「それと、もう一つ」
黒瀬は、差押予告書を裏返した。
「この家を差し押さえて、換価するつもりですか」
職員の表情が、一瞬、変わった。
「……そこまで決まっているわけではありません」
「でしょうね」
黒瀬は、それだけ言った。責めるでも、脅すでもない。ただ、相手がどこまで本気で動いているのかを、最初から見抜いていたような、静かな声だった。
職員は、少しの間、黒瀬の顔を見ていた。
「先生、以前……徴収の仕事を?」
黒瀬は、書類を揃えながら、視線も上げずに答えた。
「昔の話です」
それだけだった。清三には、その一言の重みは分からなかった。だが、職員の表情には、何かを察したような、微妙な陰りが差した。
◆
二週間後、市役所から連絡が入った。今年度分の減免と、滞納分を分けて納める計画が認められた、という知らせだった。清三が恐れていた自宅の差押えは、行われなかった。
黒瀬は、清三に納付計画を渡しながら、静かに言った。
「滞納の二十八万円は、月々分けて払います。今年度の分は、減免で軽くなります。無理のない額にしてあります」
「先生……本当に、ありがとうございました」
「払うものは、払ってください」
それだけだった。感謝の言葉に対しても、黒瀬は表情を変えなかった。
◆
その夜、柴田家の茶の間に、二つの湯呑みが並んでいた。文子が急須から、清三の湯呑みに、それから自分の湯呑みに、順にお茶を注いだ。
「この家、古くなったねえ」
「ああ」
「雨戸も重くなったし」
「ああ」
文子が、小さく笑った。
「でも、もう少しいようか」
清三は、湯呑みを両手で持った。湯気が、静かに立ち上っていた。
「そうだな」
完




