第三話 五年
森川真紀が、住民税決定通知書を開いたのは、六月の初め、給料明細と一緒に会社から渡された日のことだった。
金額を見て、真紀は思わず声が出た。
「……こんなに?」
スーパーの惣菜部門でパートを始めて七年になる。年収は二百万円台前半。娘の美咲と二人暮らしになって、もう六年が経つ。元夫からの養育費は、最初の一年こそきちんと振り込まれたが、それ以降は途切れがちだった。催促する気力も、正直、もう残っていなかった。
真紀には、自分の税金について深く考えたことがなかった。会社が年末調整をしてくれる。給料から天引きされる。それで全部、正しく計算されているものだと思っていた。だから住民税の通知を見て、初めて「高い」と思ったとき、その数字をどう扱っていいか分からなかった。
「税金のことで困ってるなら、変な税理士がいるらしいよ」
休憩室で、同じ惣菜部門のパート仲間がそう教えてくれた。
「黒瀬って先生。駅の向こうの、古いビルの二階。愛想はないけど、腕は本物だって。うちの近所の店も、何かで助けてもらったって噂」
◆
黒瀬税務会計事務所は、駅前の商店街を抜けた古い雑居ビルの二階にあった。真紀がドアを開けると、書類の山に囲まれて、痩せた男が座っていた。
「森川です。パート先の人に聞いて……」
「座ってください」
愛想のない声だった。真紀は住民税決定通知書を鞄から出し、机に置いた。
「先生。これ、安くできませんか」
「できません」
黒瀬は即答した。表情は変わらない。
真紀は、思わず肩を落とした。やはり、こんなものなのか。
「住民税は、前年の所得に基づいて計算されます。安くする方法があるとしたら、所得か控除の内容が違っている場合だけです」
黒瀬はそう言うと、机の端にあった用紙を差し出した。
「源泉徴収票と、これまでの確定申告の有無が分かるものを、持ってきてください」
◆
次の面談で、真紀は会社からもらった源泉徴収票を数年分、持ってきた。確定申告をしたことは一度もない。年末調整だけで済ませてきた、と伝えた。
黒瀬は、それを一枚ずつ、無言でめくっていった。
その手が、ある年の一枚で止まった。
「森川さん」
「はい」
「離婚したのは、いつですか」
「六年前ですけど」
「その後、再婚は」
「してません」
「娘さんを扶養しているのは」
「私です」
黒瀬は、源泉徴収票をもう一度見た。
「……これ、入ってませんね」
「何がですか」
「ひとり親控除です」
真紀は、その言葉の意味が、すぐには分からなかった。
「会社の年末調整で、申告書は出されていますね。でも、ひとり親控除の欄に、丸がついていません」
「それって……」
「本来受けられる控除が、反映されていない年があります」
真紀は、しばらく言葉が出なかった。今日相談に来たのは、今年の住民税のことだった。だが、目の前の男が指しているのは、今年ではなく、過去の源泉徴収票だった。
真紀は、家に帰ってから、スマートフォンで調べた。「税金 取り戻す」「控除 漏れ」――出てきた言葉の一つに、目が留まった。
◆
次の面談で、真紀は聞いた。
「更正の請求、っていうのをするんですか」
黒瀬は、書類から目を上げなかった。
「違います」
「え?」
「更正の請求ではありません。還付申告です」
黒瀬は、源泉徴収票を一枚、机から抜いた。
「あなたは、そもそも申告をしていない」
真紀は、意味を飲み込むのに少し時間がかかった。
「……何年前までできますか」
「五年です」
黒瀬は、それだけ言った。
真紀は、その一言を、しばらく頭の中で繰り返した。
五年。
娘がまだ小さかった頃まで、遡れる。
「じゃあ、来月から楽になりますか」
「いいえ」
黒瀬は即答した。
「そんなに早くは変わりません」
「……そうですか」
真紀の声が、少し沈んだ。
「過去の所得税は、還付申告で取り戻します。住民税は、その申告をもとに役所が計算し直します。払いすぎた分は戻りますが、時間がかかります」
「児童扶養手当は」
「変わりません。手当の所得の計算では、この控除は差し引かれない。そこは、期待しないでください」
真紀は、少し肩を落とした。
「じゃあ、今年は……」
「楽にはならないかもしれません」
黒瀬は、書類を閉じた。
「でも、来年も同じではありません」
それだけだった。希望を、大きく差し出すわけではない。ただ、今年と来年は違う、という事実だけを、静かに置いた。
◆
それから数か月、真紀は黒瀬に言われるまま、過去の源泉徴収票を揃え、還付申告の書類に判を押した。役所からの案内が届くたびに、意味の分からない言葉を写真に撮って、黒瀬に確認した。
「児童扶養手当の書類、こう書いてありますけど」
「それは、毎年の現況届です。今回の話とは別です」
黒瀬の説明は、いつも同じ調子だった。急かさない代わりに、期待も煽らない。真紀は、その淡々とした声に、少しずつ慣れていった。
秋になって、まず所得税の還付金が、真紀の口座に振り込まれた。五年分。まとまった額だった。真紀は、その通知を見て、初めて事務所で声を上げて泣いた。黒瀬は、それを黙って見ていた。何も言わなかった。ティッシュを一枚、机の端から差し出しただけだった。
冬に入り、住民税の再計算の通知が届いた。過去に払いすぎた分が戻り、来年度分からは、金額そのものが下がる。
真紀がその書類一式を事務所に持っていくと、黒瀬はそれを一通り確認したあと、机の引き出しから、朱肉と判を取り出した。
真紀の目の前で、赤い判が、書類の一番上に押された。
「済」
「先生、これ……」
「終わった案件です」
真紀は、その意味を、詳しくは聞かなかった。ただ、これで何かが本当に終わったのだ、ということだけは分かった。
◆
夜、真紀がスーパーのパートから帰ると、美咲が食卓で宿題をしていた。
「お母さん、来年、修学旅行あるんだって」
「そう」
美咲は、少しためらってから、プリントを差し出した。
「……高いかな」
真紀は、少しだけ黙った。今までなら、「いくらかかるの」と、先に聞いていたはずだった。手が、先に金額を探していたはずだった。
「行っておいで」
美咲が、顔を上げた。
「いいの?」
「うん」
美咲は、また修学旅行のプリントに目を落とした。真紀は、その横顔を見ながら、台所に立った。夕飯の支度をする手が、いつもより、少しだけ軽かった。
完




