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義賊税理士 ZERO  作者: 八雲 海


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第二話 猶予《ゆうよ》

にしおか惣菜店の前を、税務署の封筒が通り過ぎることは、今まで一度もなかった。だから西岡正治《にしおか・まさはる》は、その封筒を三度見返した。

「督促状」ではなかった。もっと事務的な、短い文面だった。

「所得税の滞納額について、一括での納付をお願いします」

 金額は、七十二万円。

 西岡は、その紙を、店先から奥の作業場へ持っていった。客の目に触れる場所には、置いておけなかった。何百万という金ではない。七十二万円。人によっては、ボーナス一回分にもならない額かもしれない。それが、どうしても、今の自分には出せない。

 原因は分かっている。去年の夏、業務用冷蔵庫が突然壊れた。仕込んだ惣菜を朝までに全部だめにするわけにはいかず、その日のうちに新しいものを入れた。交換費用、約九十万円。そこへ追い打ちをかけるように、食用油と米、電気代が次々に値上がりした。

 常連客の顔が、頭に浮かんだ。会社帰りに寄る若い会社員。年金暮らしの老人。値上げすれば、その何人かは離れていく。西岡は結局、コロッケもメンチカツも、五十円だけ値上げした。それだけだった。

 その五十円では、追いつかなかった。

 本来、税金のために取っておくはずだった分が、いつの間にか、日々の仕入れと冷蔵庫の返済に消えていた。妻の由美子《ゆみこ》は、そのことに気づいていたが、何も言わなかった。言えば、夫を責めることになる気がした。

「一括なんて、無理に決まってるだろ……」

 西岡は封筒を見つめたまま、それだけ言った。朝五時からの仕込みで荒れた手が、少し震えていた。

◆

「にしおかさん、変わった先生がいるらしいわよ」

 商店街の惣菜組合の集まりで、隣町の乾物屋の女将がそう教えてくれた。

「うちの旦那の知り合いの町工場が、去年、税務署に旋盤を持っていかれそうになったんだけど、税理士の先生が制度を使って止めたんだって。黒瀬さんっていう、国税上がりの、無口な先生」

 西岡は、その日の夜、由美子と二人で相談した。頼るところが、他になかった。

◆

 黒瀬税務会計事務所は、駅前の商店街を抜けた古い雑居ビルの二階にあった。西岡がドアを開けると、書類に埋もれるようにして、痩せた男が座っていた。

「西岡です。惣菜組合の集まりで、先生のことを聞いて……」

「座ってください」

 愛想のない声だった。だが、その無愛想さが、なぜか居心地の悪さを感じさせなかった。

 西岡は督促の書面と、店の帳簿を鞄から出した。年季の入った大学ノートに、鉛筆で数字を書き連ねてきた、手作りの帳簿だった。

 黒瀬は、それを一枚ずつめくっていった。表情は変わらない。

「所得税の滞納額、七十二万円」

「はい……一括では、どうしても」

「原因は」

「冷蔵庫です。去年の夏、壊れて。九十万かかりました。それから、油やら米やらの値上がりも」

「値上げは」

「五十円だけ、しました」

 黒瀬は帳簿から顔を上げた。

「なぜ、それだけなんですか」

 西岡は、しばらく答えられなかった。

「……お客さんが、離れると思って」

 黒瀬は何も言わなかった。ただ、また帳簿に目を落とした。

「今日はこれで結構です。次までに、直近半年分の売上帳、仕入帳、預金通帳の写し、家賃と光熱費の明細、冷蔵庫を交換したときの領収書、それから、お二人の最低限の生活費が分かるものを、揃えてきてください」

「はい……あの、先生」

「なんですか」

「うちみたいな小さい店でも、なんとかなるものなんでしょうか」

 黒瀬は少し間を置いてから、初めて西岡の顔をまっすぐに見た。

「七十二万円は、大金です」

 西岡は、思わず顔を上げた。責められると思った。

「払えない人間にとっては」

 それだけだった。慰めでも、励ましでもない。ただ、その苦しさの大きさを、そのまま認めた言葉だった。西岡は、膝の上の大学ノートに目を落とした。表紙の角が、三十年分の指の脂で、黒く光っていた。

◆

 その日から、西岡と由美子は、店の隅の小さな座卓に向かい合って、夜な夜な書類を整理した。半年分の伝票、仕入先ごとの支払記録、冷蔵庫の領収書、通帳のコピー。

「うちの帳簿、こんなに細かく見られるの、初めてだね」

 由美子がそう言うと、西岡は苦笑いした。

「今まで、誰にも見せたことなかったからな」

 三十年近く、二人だけでやってきた店だった。誰かに数字を見せることは、まるで自分たちの生き方そのものを晒すような、居心地の悪さがあった。それでも、黒瀬に言われた通り、一枚ずつ揃えていった。

◆

 書類を持って再訪した西岡に、黒瀬は電卓を片手に、資金繰り表を見せた。数字が、細かく並んでいる。

「毎月、いくらなら払えます」

 西岡は少し考えて、答えた。

「……三万くらいなら」

「違います」

 黒瀬は電卓を一度だけ叩いた。

「四万二千円です」

「そんな細かい数字、どうして分かるんです」

「あなたの店の数字だからです」

 黒瀬は資金繰り表を指でなぞった。

「売上から仕入れを引く。家賃と光熱費を引く。お二人が生活に必要な最低限の金額を引く。残るのが、四万二千円」

 西岡は、その数字を見つめた。自分でも把握していなかった、店の本当の余力だった。

「これでいくと、十万なら、二か月は払えます」

 西岡が言うと、黒瀬は静かに首を振った。

「そのあとは」

「……払えません」

「それは、納付計画とは言いません」

 西岡は黙った。黒瀬の言葉には、責める響きはなかった。ただ、事実を告げているだけだった。

「無理をして多く払って、三か月目に払えなくなれば、また一からやり直しです。四万二千円なら、この先も続けられる」

「……続けられる、んですか」

「あなたの店の数字が、そう言っています」

◆

 二週間後、黒瀬から呼び出しを受け、西岡は税務署への同席を求められた。

 応接室に現れた職員は、三十代半ばの、きびきびとした男だった。ファイルを開くなり、前置きを省いた。

「西岡さん、事情は伺っています。ただ、結論から申し上げます」

 職員は、冷蔵庫の領収書の写しを、指先で軽く叩いた。

「冷蔵庫の買い替えは、設備投資です。損失ではありません。それから、油や米の値上がりは、どこのお店も同じ条件です」

 一拍おいて、職員は言い切った。

「『事業につき著しい損失を受けた』には、当たりません」

 西岡は、膝の上で拳を握った。言い返す言葉が見つからなかった。言われてみれば、その通りだという気がした。冷蔵庫は、自分で選んで買ったものだ。値上がりに苦しんでいるのも、自分の店だけではない。

「お支払いが難しいようでしたら、財産の調査から進めることになります」

 職員の声は、冷たくはなかった。ただ、決まりを決まり通りに述べているだけだった。

 黒瀬は、鞄から法令集を出さなかった。代わりに、資料を三枚、机の上に並べた。

「冷蔵庫の代金は、損失には数えていません」

 職員の手が、止まった。

「去年の利益です」

 一枚置く。

「今年です。半年で、もう赤字です」

 もう一枚置く。

「仕入れ値の推移です」

 三枚目を置いた。

「冷蔵庫を抜いても、これだけ減っている」

 黒瀬は、三枚の上に手を置いた。

「条文の話をする前に、この店を見てください」

 職員は、三枚の資料を順に見比べた。油と米の値上がりが始まった月から、利益が目に見えて痩せている。今年に入ってからは、赤字だった。冷蔵庫の九十万円は、どの数字にも入っていなかった。

「……これは」

「一時的な支出ではありません。今も続いている損失です」

「しかし、値上がりは、どこの店も――」

「どこの店も同じ条件なら、どこの店も同じように削られている」

 黒瀬は、職員から目を離さなかった。

「それは、この店が猶予に当たらない理由にはなりません」

 応接室に、短い沈黙が落ちた。

「四万二千円という数字は、私が決めたものではありません。この店の売上から、必要な支出を引いた、残りの全額です。これ以上は、店が保ちません」

 職員は、しばらく資料から目を離さなかった。やがて、ファイルの上に置いていたペンを取り直した。

「……分割の計画、詳しく見せてください」

「もちろんです」

 黒瀬は、資金繰り表をもう一部、机に置いた。

 西岡は、握っていた拳を、ゆっくりとほどいた。

◆

 一週間後、黒瀬から電話があった。

「猶予、認められました。詳しい話をします。店を閉めてから、事務所へ来てください」

 それだけ言うと、電話は切れた。

◆

 その夜、西岡は仕込みを終えてから、黒瀬税務会計事務所を訪ねた。

 黒瀬は机の上に、資金繰り表と、納付計画の書かれた紙を並べていた。

「月々四万二千円。猶予する額が百万円を超えないので、担保は要りません。延滞税の一部も、免除されます」

「一年で、払い終わるんでしょうか」

「終わりません。一年半ほどかかります。足りない期間は、延長を申請します」

「先生……」

 西岡は、思わず頭を下げた。

「先生。助かったんでしょうか」

「まだです」

「え……」

「これから払うんです」

 黒瀬は、納付計画の書かれた紙を、西岡へ差し出した。

「七十二万円は、消えません」

 西岡の顔が、少し曇った。

「ただ」

 黒瀬は資金繰り表を指で叩いた。

「あなたには、時間があります」

 西岡は、その紙を、両手で受け取った。何かとても大事なものを渡されたような気がした。

◆

 事務所を出るとき、西岡はふと聞いた。

「先生、御礼は何を持ってくれば」

「結構です」

 黒瀬は書類に目を落としたまま、それだけ言った。西岡は、頭を下げて店に戻った。

◆

 翌朝、五時。

 西岡が、にしおか惣菜店のシャッターを上げた。

 ガラガラガラ――。

 奥から、由美子の声がした。

「お父さん、油、あったまったよ」

「おう」

 西岡は、最初のコロッケを油へ落とした。

 ジュッ。

 昨日と同じ匂いが、まだ薄暗い商店街に、静かに流れ始めた。

完


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