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義賊税理士 ZERO  作者: 八雲 海


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第一話 換価《かんか》

高村精機《たかむらせいき》の作業場に、その紙切れが届いたのは、九月の終わりの、まだ蒸し暑さの残る昼下がりだった。

「差押え予告通知書」

 封筒を開いた瞬間、高村征夫《たかむら・ゆきお》は、それが何であるかをすぐに理解した。理解できてしまうことが、余計にこたえた。督促状の一通目が来たときは、まだ驚きがあった。二通目、三通目と重なるうちに、驚きは麻痺に変わり、麻痺はやがて、諦めに似た何かに変わっていった。

 工場の隅には、古いNC(数値制御)旋盤《せんばん》が一台、鈍い光を放って座っている。父の代に導入された機械で、今どき部品も手に入りにくい。それでも高村は、この旋盤でしか削れない仕事があることを知っていた。取引先の一つが、どうしてもこの機械の精度でなければ困ると言い続けてきた特殊な部品。他所に頼めば、納期も値段も倍以上になる。

 町工場の並ぶ東京の南の外れ、シャッター通りの奥にひっそりと看板を掲げた高村精機は、父の代から数えて三十年以上、この機械と共に生きてきた。従業員は高村を入れて五人。経理を任せている妻の春江《はるえ》は、この半年、電卓を叩く手が震えることが増えた。一人息子は、大学を出てからそのまま商社に勤めている。工場を継ぐ気がないことは、誰も口には出さないが、皆が知っていた。

 原因ははっきりしている。半年前、主要取引先が倒産した。売掛金、約八百万円。回収の見込みはゼロだ。資金繰りは瞬く間に崩れた。消費税の納期限が来た。客から預かった金だということは、分かっていた。それでも、まず従業員の給料を守った。工場を止めないことを優先した。その結果、納税が後回しになった。延滞税が雪だるま式に膨らんだ。

「浪費したわけじゃない。仕事を守っただけだ」

 高村は誰にともなく、そう呟《つぶや》くことがあった。誰も責めてなどいないのに。

 差押えの対象になったのは、意外にも工場の土地でも、社長の自宅でもなかった。あのNC旋盤だった。市場に出せば二束三文にしかならない、型落ちの機械。だが、高村精機にとっては、その旋盤でしか削れない仕事がまだ残っている。それを失えば、納税どころか、明日から仕事そのものができなくなる。

「こいつ持ってかれたら、税金払うどころか、仕事ができねえんだよ」

 高村はその夜、誰もいなくなった工場で、旋盤を掌《てのひら》で撫でながら、そう言った。

◆

「アンタ、商工会の田中さんに相談してみたら」

 春江がそう言い出したのは、通知書が来てから三日後のことだった。田中は高村精機と付き合いの長い、地元の商工会の相談員だ。その田中が、電話の向こうで少し声を落として、こう言った。

「うちの範囲じゃもう難しいと思う。ただ……一人、変わった先生を知ってる。税理士なんだが、元は役所の人らしい。愛想はないけど、腕は本物だって噂がある」

「その人、名前は」

「黒瀬。黒瀬零司《くろせ・れいじ》って人。事務所は駅から少し歩くけど……行ってみたら」

 高村は、それ以上聞きようのない紹介だ、と思った。腕は本物、というだけの言葉を頼りに、藁《わら》にもすがる思いで、その事務所を訪ねることにした。

◆

 黒瀬税務会計事務所は、駅前の商店街を抜けた先の、古い雑居ビルの二階にあった。看板は小さく、通りからはほとんど気づかれない。二階の窓に、蛍光灯の光がわずかに滲《にじ》んでいた。

 高村がドアを開けると、狭い部屋の奥、書類の山に囲まれるようにして、痩せた男が座っていた。長身。黒髪に白髪が混じり始めている。濃紺のスーツは、上等ではないが、糊《のり》の効いた清潔さがあった。

「高村です。田中さんの紹介で……」

「座ってください」

 黒瀬は顔も上げずに言った。愛想のかけらもない。だが、その声には、余計な感情がない分、逆に落ち着きがあった。

 高村は差押え予告通知書、確定申告書の控え、帳簿のコピー、督促状の束――思いつく限りの書類を鞄から取り出し、机の上に積んだ。

 黒瀬はそれを一枚ずつ、無言で読み始めた。

 時間にすれば、十五分ほどだっただろうか。高村には一時間にも感じられた。窓の外で電車が通り過ぎる音が、やけに大きく聞こえた。

「消費税の滞納額、約六百二十万円。延滞税を含めると、六百八十万を超えています」

 黒瀬はようやく顔を上げた。表情は変わらない。

「対象財産はNC旋盤一台。市場価値は、おそらく百万円に届かない」

「はい……」

「それでも、これを売られると仕事にならない、と」

「その通りです」

 黒瀬は小さく頷いた。それだけだった。慰めの言葉も、励ましの言葉もない。ただ、事実だけを確認していく。高村は、膝の上で握っていた拳を、いつの間にかほどいていた。

「税務署の担当は」

「南浜《みなみはま》税務署の……徴収担当の、係の方です」

「連絡先を」

 高村がメモを渡すと、黒瀬はそれを一瞥しただけで、机の端に置いた。

「今日はこれで結構です。次までに、直近三年分の総勘定元帳、取引先が倒産した際の書類――債権が回収不能になったことを示すもの、それから、これまでの分割納付の記録を、揃えてきてください」

「あの……先生、これ、なんとかなるものなんでしょうか」

 黒瀬は少し間を置いた。この日、初めて見せた「間」だった。

「税金を、なくすことはできません」

「……はい」

「ただ、払わなくていい額まで払わされている、ということは、よくあります」

 それだけ言うと、黒瀬はまた書類に目を落とした。面談は終わった、という合図だった。

◆

 その日から、高村の夜は書類との格闘になった。倒産した取引先の破産管財人に連絡を取り、債権が回収不能であることを示す書類を送ってもらう。三年分の総勘定元帳を引っ張り出し、春江と二人で数字を突き合わせる。分割納付をしていた頃の領収書を、段ボール箱の底から探し出す。

「こんなに細かいこと、聞かれると思わなかった」

 春江が疲れた声で言った。深夜、事務所の蛍光灯の下で、二人は書類を綴じ直していた。

「その先生、本当に大丈夫なのかね。アンタの話聞いてても、何を考えてる人なんだか、さっぱり分からない」

「分からないな」

「愛想はない。励ましもしない。宿題だけ、山ほど出す」

 春江は、綴じ終えた束を、とん、と机で揃えた。

「学校の先生みたいね」

「学校の先生は、もう少し笑う」

 春江が、小さく吹き出した。笑ったのは、通知書が来てから初めてだった。

 高村は答えながら、綴じ紐を、いつもより強く結んでいた。黒瀬は何も約束しなかった。励ましもしなかった。ただ、必要な書類を淡々と要求し、必要な手続きを淡々と踏んだ。それだけだったが、その「それだけ」の中に、ある種の確かさがあった。

 十月に入ってまもなく、税務署の職員が二人、工場に来た。旋盤の脇に差押えの札を貼り、機械は動かさないように、と短く告げて、帰っていった。取引先には頭を下げ、納期を延ばしてもらった。高村はその日から、札の貼られた側を通らずに、作業場の奥へ回るようになった。

 週末、久しぶりに帰ってきた息子が、資料の山を見て、眉をひそめた。

「親父、まだこの工場、続けるつもりなのか」

「続ける以外の何がある」

「あの旋盤一台のために、こんな苦労してさ」

 高村は答えなかった。答える必要がない、と思った。あの旋盤は、ただの機械ではない。父から受け継いだ、仕事の証だった。

◆

 書類を揃えて事務所を再訪した高村に、黒瀬は初めて、これからの見通しを短く伝えた。

「換価の猶予という制度があります。要件を満たせば、財産を差し押さえられたままでも、売却――換価だけを、一定期間止められる」

「それで……間に合うんですか」

「間に合わせます」

 黒瀬の声に、初めて何かが混じった気がした。断定の響き。だがそれ以上、何も付け加えなかった。

◆

 一週間後、高村は事務所に電話をかけた。

「先生、あの……税務署から、うちに直接連絡が来て。旋盤、来月の公売にかける、と」

「知っています」

 黒瀬の声は変わらない。

「私はすでに、南浜税務署の徴収担当と話す約束を取り付けています。同席してください」

 その日の午後、高村は初めて、黒瀬が税務署の担当者と話す場に同席することを許された。狭い応接室。徴収担当の職員は、まだ若い。机の上には、高村精機のファイルが分厚く積まれている。悪意のある顔ではなかった。むしろ、疲れた実務者の顔だった。

「黒瀬先生、率直に申し上げますが……こちらとしても、これ以上の猶予は難しいと考えています。滞納額も大きく、督促からもかなりの期間が経過しています。上とも、もう話がついている案件です」

「そうでしょうね」

「先生、もう差押えはされています」

「知っています」

「でしたら――」

「私は、差押えを外せと言っているんじゃない」

 黒瀬は、傍らに置いていた鞄から、分厚い法令集を取り出した。付箋の貼られたページを開く。

 パラッ。

「国税徴収法、第百五十一条」

 黒瀬は淡々と読み上げた。

「――売るな、と言っているんです」

 職員は、一瞬、言葉に詰まった。

「換価の猶予、ですか。しかし、申請の期限はとうに過ぎています」

「知っています」

「では――」

「申請ではありません。署長の職権です」

 黒瀬は、用意していた資料の一冊目を、机に置いた。

「売られれば、事業が続けられなくなること」

 二冊目。

「納税について、誠実な意思があること」

 三冊目。

「そして、今すぐ売るより、待ったほうが確実に取れること」

 黒瀬は、三冊目の上に指を置いた。

「旋盤を売っても、百万円になりません。動かしておけば、六百八十万が、少しずつ戻ってくる」

 職員が、資料に目を落とす。破産管財人からの証明書。直近の資金繰り表。これまでの分割納付の履歴。高村が言われた通りに揃えた書類が、一冊ずつ、そこに並んでいた。

「……全部、揃えたんですか」

「だから来ました」

 沈黙。

「担保は」

「差し押さえている旋盤を。足りない分は――」

 黒瀬は、四冊目の薄い綴りを置いた。

「ほかに差し出せる財産も、保証人になれる者もいないことの説明です」

 職員は、しばらくファイルと黒瀬の顔を交互に見ていたが、やがて小さく息を吐いた。

「……こちらとしても、事業自体を潰すことが目的ではありません。検討します」

「よろしくお願いします」

 黒瀬はそれだけ言うと、法令集を閉じた。

 パタン。

 高村は、その一連のやり取りを、ただ黙って見ていた。何が起きているのか、正確には分からなかった。ただ、目の前の痩せた男が、怒鳴りもせず、頭を下げもせず、ただ淡々と条文を積み上げていくだけで、若い職員の表情が、少しずつ変わっていったことだけは、はっきりと分かった。

◆

 猶予が決まるまでの間、高村は毎晩、旋盤の前に立った。札の貼られた機械に、触れはしなかった。

 公売予定日の十日前、事務所から連絡が入った。

「換価の猶予、認められました」

 電話口の黒瀬の声は、いつもと変わらなかった。喜びも、達成感も滲んでいない。ただの事実として、そう告げられた。

「猶予期間は一年。延滞税の一部も軽減されます。旋盤を使う許可も出ました。差押えは残りますが、動かせます」

 高村は受話器を握ったまま、しばらく声が出なかった。

「……ありがとうございます」

「分割での納付計画も、署と合意しました。無理のない額です」

 それだけ言うと、電話は切れた。

◆

 数日後、高村は御礼を伝えるため、再び黒瀬税務会計事務所を訪れた。手土産の菓子折りを持って。

「先生、このたびは、本当に……」

 黒瀬は机から顔を上げず、小さく頷いただけだった。菓子折りを受け取る素振りも見せない。

「あとは、払うだけです」

 黒瀬は書類をめくりながら言った。

「それは、あなたの仕事だ」

 机の端に、裏返しの書類が積まれていた。一番上の一枚だけ、隅がわずかにのぞいている。名前は見えなかった。見えたのは、赤い判だけだった。

 朱色の、一文字。

「済」

「先生。これ、何ですか」

「終わった案件です」

 その隣に、見覚えのある綴りがあった。高村精機。自分と春江が、夜ごと綴じた書類だった。判は、押されていない。

「……うちのは」

「まだです」

 黒瀬は、目も向けずに答えた。

 高村はそれ以上、何も聞かなかった。聞かなくても、分かった気がした。

 事務所を出て、雑居ビルの階段を降りながら、高村はふと振り返った。二階の窓に、黒瀬の影が見えた。もう次の書類に目を落としている。

◆

 翌朝、高村精機の作業場に、いつもの音が戻った。

 ガコン。

 古いNC旋盤が、鈍い音を立てて動き出す。昨日まで止まっていた機械が、札を貼られたまま、今日はまた、鉄を削る。切削油の匂いが、いつも通り、狭い作業場に満ちていく。

 高村はいつもの位置に立ち、旋盤のスイッチを見つめた。何も変わっていないはずの光景が、少しだけ違って見えた。

 工場の外では、十一月の風が、少しずつ冷たくなり始めていた。

完


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