伯爵家に来て1年後
あれから、ほぼ一年が過ぎた。
お姉様は体が弱く、ほとんど外出などしない。けれど、セドリック殿下が教会へと誘うときだけは、おめかしをして宝石で飾り立て、殿下と腕を組んで屋敷を出ていく。
――王子様がご一緒だと、お出かけになるのね。
そんな考えがふと胸をよぎっても、私は顔には出さない。淑女とは、常に笑顔という仮面を身につけ、本心を悟らせてはならないものだと、マナーの先生から教わっていたから。
「ふぅ、やっと出かけてくださったわ」
馬車が正門を出ていくのを見送ってすぐ、廊下の向こうから、額の汗を拭きながら年配の女性がこちらへやってきた。
イリスティアお姉様の乳母で、お姉様のお母様の代からお世話をしているジューンだ。お姉様のきつい物言いに、どれほどの手当を積まれても誰もやりたがらず、結局お姉様のお世話は、ジューン一人が担うことになってしまっていた。
彼女の目の下には、隠しようのない濃い隈が浮かんでいる。肩を上下させる息はまだ整っておらず、朝から一体どれほど振り回されたのだろうと、見ているこちらまで胸が締めつけられるようだった。
「お疲れ様、ジューン。飴、食べるかしら?」
私はポケットから包み紙に入った飴を取り出し、そっと差し出した。
「あら、お嬢様、ありがとうございます。フフ、疲れたときには甘いものですわね」
ジューンは少し肩の力を抜いて、皺の刻まれた口元をほころばせた。それを見て、私もほっとする。
「今日はどうだったの?」
なんとなく様子がおかしい気がして尋ねると、ジューンはあからさまに嫌そうな顔をして、盛大にため息をついた。よほど堪えているのだろう、その背中を思わず撫でてしまう。
「見窄らしいシンプルなドレスしか着たくないと言って怒り出したんです。あとコルセットも嫌がられまして……」
聞いた瞬間、頭がかっと熱くなるのを感じた。
「まあ! それはひどいわね。伯爵家の、しかもセドリック殿下の婚約者なのに、そんなことは駄目よ。伯爵家と殿下のメンツが丸潰れになるわ!」
我知らず、声が大きくなっていた。貴族は体面を重んじる。舐められては、家全体の名誉に関わるのだ。それなのに、貧乏なふりをしてあれほど尽くしてくださっている殿下のご厚意を無下にしたり、お父様やお母様のお心遣いをゴミ箱に捨てるかのように振る舞うなんて――想像するだけで、こちらまで恥ずかしくて顔が熱くなる。
「何とかなだめてお召し替えいただきましたが、最後までセドリック殿下のご用意された衣装は嫌がられて、お水をかけてしまわれました。急遽、お嬢様が以前、ご姉妹でお揃いのデザインを色違いで仕立てられたドレスで説得し、殿下の贈られた貴金属で着飾っていただいて……かなり不服そうでしたが、ようやくお出かけになりました」
そう語るジューンは、朝より五歳ほど老け込んだように見えた。母君の代から仕えてきた侍女に、そこまでの仕打ちをするなんて。我儘にも程がある。ジューンの疲れきった横顔を見ていると、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
「そうだ、お姉様がお出かけになったのなら、しばらくお戻りにはならないでしょうし。ジューン、私と街に出て息抜きしましょう! それがいいわ、たまには甘いものでも食べて、元気出してちょうだいな。お姉様を日頃甘やかしてくれているお礼だから、気にしないで!」
ジューンの丸まっていた背中が、その言葉にわずかに伸びる。
「ええ! うーん……」
しばし迷うような間があってから、彼女はふっと表情を緩めた。
「分かりました。ではお供させていただきますね。……本当に、どちらが姉なのかわかりませんわね」
その言葉に、なんだかくすぐったいような、誇らしいような気持ちになる。私たちは顔を見合わせて、思わず声を上げて笑った。淑女らしくはないかもしれないけれど、気心の知れた相手の前でくらい、素の自分でいたっていいはずだ。
廊下の少し先では、通りかかった侍女たちが、私たちのやり取りを見て目を細めていた。
「アン様は、本当にお優しい方ですこと」
「イリスティア様のお世話で疲れたジューンさんを、あんな風に気遣われて……」
そんな囁き声が、風に乗って耳に届く。悪い気はしなかった。褒めてほしくてしていることではないけれど、誰かに見ていてもらえるのは、やはり嬉しいものだ。
――私はこうやって、少しずつ、この家の娘になっていくのかもしれない。
そんな気がして、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。




