千里眼の男②
1時間後。
使用人らしき男性が、呼びに来た。
その間、私はお茶を飲みながら、急いでカバンに詰め込んだ資料を整理し、栞を挟んだ分厚い本を見返していた。
控えめなノックのあと「ユリウス様がお待ちです」と告げられ、セドリック様と二人でユリウスさんの書斎へ向かう。
ユリウスさんは余裕を取り戻したようにソファーに腰掛けていた。テーブルを挟んだ向かい側に、セドリック様と並んで座る。
「条件がある。条件次第で、手を貸す内容が変わる。よく考えて返答するように。ただし、僕には時間がない。返答はすぐにしてもらう」
横柄な物言いにムッとするけれど、無表情で冷たい目を前にすると何も言えない。ぐっとこらえていると、セドリック様が身を乗り出した。
「ならば、強制的にこちらの希望を叶えてもらうこともできる、と言ったらどうする?」
「はは。面白いことを言う。僕を脅迫するのか?
やってみるといい、セドリック殿下。お帰りはあちらだ。帰ったら早速、脅迫でも強制でも実行するといいよ。楽しみにしている」
穏やかに微笑む。その笑顔には、絶対的な自信が感じられた。なぜ、こんな辺境の、しかも伯爵家の領地の隅にいるだけの人が、ここまで自信を持てるのか分からない。
でも、その自信が怖かった。
それに、天才というのがどういうものか分からない私は、嘘を言われても気づけない気がする。協力が必要なのは私たちで、頼みに来たのだから、このまま怒らせて帰るわけにはいかない。
「待ってください、ユリウスさん。
……条件を教えてください。その、できる範囲なら何でもします!」
「そのノートを渡せ」
「イヤです! このノートは私たちの希望です! 絶対に渡せません」
「ならいい」
奪われると思って抱きしめた私に、ユリウスさんはあっさりと撤回した。呆気にとられていると、彼は左手をゆるく握り、ゆっくりと小指を立てる。
「一つ目。僕はローゼリンデ様を裏切らない。これは絶対だ。ローゼリンデ様の意向に反することは、僕には許せない」
「え? ローゼリンデ……様?」
「彼女の名前を、なぜここで出すんだ?
イリスティアか?
亡くなった女性の意思など、関係ないだろう?
何が目的だ?」
「君は何歳だったっけ? 三歳? 五歳?」
セドリック様が問い返すと、ユリウスさんは急にふざけ始めた。大事な交渉の最中に何を言い出すのかと、ちょっと腹が立つ。セドリック様も同じらしく、膝の上で拳を強く握っていた。
「何が言いたい」
「『なぜ』『なぜ』と質問して答えてもらえるのは、その程度の年までだ。
社会も僕も、君たちの親ではない。
知りたいなら、調べるがいい。
二つ目。僕は、資金援助がないなら動かない」
「はぁ!? 国を守る未来の研究に、お金を取るんですか!?」
驚きすぎて、立ち上がって大声が出た。
田舎で土地を豊かにする研究をしたり、水関係の工事をしたり、肥料や害虫駆除の研究をしている人が、そんな大事な研究でお金を要求するなんて。
今だって裕福そうには見えないけれど、ちゃんとやれているし、何よりこの研究は伯爵家の予算だと聞いている。
なのに、何を言っているんだこの人は?
「では、千人ほど死んでもいいということかい?」
「え? 千人も? 死ぬ?」
何の話をされているのか分からず、私はセドリック様と顔を見合わせた。
ユリウスさんは呆れたようにため息をつくと、億劫そうに続ける。
「僕の事業を、君たちの言う『未来のため』にただで差し出せと言うのなら、その分の穴は僕の懐から出ることになる。僕の懐が痛むということは、そこで働く者たちの生活が痛むということだ。分かるかい?」
「煙に巻くような言い方はやめてくれ! はっきり言えばどうだ! 何が気に入らないんだ、ユリウス!」
左手の小指と薬指を立てたまま、ユリウスさんは困ったように首を傾げ、口角をゆるやかに上げて笑う。それも分からないのか、とその目が言っている気がした。
「こんな基本も分からないのに、よく国の未来を語れるね。
いいだろう、今回は特別だ。
僕の事業では約四百人が働いている。結婚して子供を養っている人もいれば、親兄弟を養う者もいる。その家族を合わせると、ざっと千人が直接関わっている。
君たちの希望のままに金を使って、僕の商会が莫大な損失を出したら……単純計算で千人が飢え死にする。それでも良いなら、金はいらない。どう?」
「え? え? そ、そうなの?」
隣のセドリック様を見ると、一瞬考え込み、そして納得したように顔を上げた。
「すまない。僕の考えが至らなかった。かかる費用は、僕が準備する」
「わ、私も! 伯爵家として資金を出します!」
「王子は分かる。けれど、アン。君に伯爵家の決裁権があるのか?」
呼び捨てにされて一瞬ムッとしたけれど、無視した。この人は優しそうで顔はいいのに、結構性格が悪い。いちいち腹を立てていたら、話が前に進まない。
「私は伯爵家の二番目の娘です。ですから、父に進言します。父も理解してくれています」
「へぇ。伯爵代行のフレシュがねぇ。この決裁権を承認する、と」
ぞっとするほど低い声だった。何を考えているのか分からない。それなのに、笑みだけは変わらない。
「なら良いだろう。資金は二人に請求させてもらう。当然、明細も出すから、経費はそちらで管理するといいよ。
三つ目。僕は、事業において責任を取らない」
「はぁ!!
お金も取るのに、責任は取らないんですか!?
なんか卑怯じゃないですか!?」
「よせ、アン! ここは……ユリウスの言いたいことも分かる。
僕とアンが共同責任者でいい」
「どういうことですか、セドリック様」
「すまない、ユリウス。彼女は伯爵家に引き取られて、まだ二年目なんだ。多少礼儀がなっていないが、普段はこうじゃない。
僕のために……いや、未来を憂いて、熱くなっているだけなんだ。許してやってくれ」
「気にしていない。では、君たちが責任者ということで書面を準備する。準備ができ次第、伯爵家へ向かう。
そこで書面を確認し、納得できたなら署名をもらう。それでいいか?」
「分かった。時間を取ってくれてありがとう。
条件は、その三つでいいのか?」
「他にはない。君たちからの質問は?」
「ない。その都度聞くから、助言をもらいたい」
「分かった。ではさようなら。お帰りはあちらだ」
「待ってください! 一つ質問があります!」




