依代1
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下校の時刻を知らせる鐘の音が響くとともに、黎は教室を飛び出した。背後から、珍しく市岡の叫び声が聞こえる。
「柳野くん! 危ないから走っちゃダメだよ!」
しかし、黎はそれには応えず、ひたすらに寮への道を走っていた。
靴を履き替え、通い慣れた生垣沿いの通路を急ぐ。コミュニケーションルームの生徒が彼を凝視している事も構わず、来客者専用入り口の方の駐車場だけに意識を注いだ。そこに、まだ最上家の車がある事を、彼はただ必死に願っていた。
「光彰っ!」
駐車場は生垣沿いからは死角になっているため、直接見ることは出来ない。まだそこにいてくれ、せめて一瞬だけでもと必死に願いながら、黎は光彰の名を呼び続ける。
しかし、辿り着いた駐車場には、警備会社の車両が一台停まっているだけだった。そこにいた警備員から、最上の車がやって来て光彰を連れて帰ったのは、午前中のことだったという残酷な答えを聞かされる。その言葉に、黎はがっくりと膝から崩れ落ちた。
「すみません、私が軽率でした。時計塔で何が起きたかを知らされる前に、恵那先生から誰かに自習室の使用許可を出したかと訊かれて、正直にあなた方のことを答えてしまったんです。隠し通すと約束をしていたのに、緊急事態だと言われてしまって、判断を誤りました。状況を考えると、何としてでも誤魔化すべきでした。光彰さんが規則違反をしていたと知った校長の喜びようは、恐ろしいものでしたよ。そんな方に有利になる情報を、僕は渡してしまいました。彼は私への約束を守ってくださっていて、私があの届を受理した時点で、時給が上がるようにしていただいていたと聞かされました。そうやってこちらは良くしていただいたのに、私の方は、その恩を仇で返してしまいました……。本当に、申し訳ありません」
そう言って頭を下げたのは、昨夜彼らに自習室の使用許可を出した警備員だった。
昨夜彼が勤務を終えるまでは何事もなく、今朝になって事件を知ってどういうことかと戸惑っていたところに、校長が届出のチェックをしに来たのだそうだ。周囲は光彰を犯人だと断定するようなことを言っているが、彼はそうは思わないのだと言う。
自分の身の潔白を証明するためにきちんと自習室の使用許可届を出すような人物が、時計塔に無断で立ち入り、しかも殺人を犯すとは信じられないと主張していた。
「恵那先生は私が見せた記録簿を見て、彼を停学にする材料が出来たと言って笑っていました。でも、その姿が私には悍ましく見えて仕方がありませんでした。だって、その件で生徒がお一人亡くなってるんですよ? それなのに、その事には全く意識を向けず、ただ光彰さんを陥れるための材料を手にした喜びに溺れていました。本当に、ただ喜んでいました。それを考えると、恵那先生の方がよっぽど……」
「ストップ。それ以上は口に出さないように。あなたの生活に支障が出てしまいますよ」
警備員がうっかり恵那を悪く言おうとしたところを、黎を追って来た八木が間一髪で止める。
それは賢明な判断だっただろう。もし今恵那を悪く言おうものなら、何をされるか分からない。
情けない事なかれ主義だと思われていた校長は、今や危険人物へと変貌を遂げた。
彼の暴走を止めていた最上家が抑止力を失ってしまうのだから、これ以降彼を刺激してしまうのは、得策とは言えないだろう。八木がそのことを伝えると、警備員ははっと息を呑む。そうして、再びがっくりと肩を落とした。
「す、すみません。私は本当にもう……。どこまでも軽率でいけませんね」
自分のとった行動のせいで、一人の生徒の処遇が決まってしまうかも知れないという恐ろしさと、そう実感しているのにうっかり滑ってしまう口に、心の底から嫌気が差したようだ。強く拳を握り締めた手は、自分への怒りに震えている。
八木はそんな彼の様子を見て苦笑した。
「まあまあ、最後までは言わなかったんだし、あまり気にしないでください。で、確認なんですけれど……。光彰は辰之助さんが連れて帰ったんですよね? その時刻って、これですか? 十一時台の最上家の迎えの車。これに辰之助さんと光彰が乗って帰ったって事で合ってますか?」
八木は、来客者名を記録するリストの中にある、『最上家送迎』という箇所を指差し、警備員へと尋ねる。この時刻で帰宅したのであれば、光彰が彼らと別れて校長室へすぐ行ったとしても、すぐにここを出たという事になる。
それは、恵那が光彰を校長室へと呼びつけ、その上で一方的に停学という処分を下し、光彰の話は何も聞かなかったということを示しているようなものだ。その事実だけでも、恵那は教育者失格だと言えるだろう。
「はい、そうです。最上家の方が迎えに来られて、お二人揃ってお帰りになりました。停学期間中は学校に関わるものの使用が全て禁じられますので、光彰さんは寮にもいられなくなるんです。すぐに自宅へ戻るようにと恵那先生から言われたとのことでした」
「すぐに……? それは寮も学校の施設だからですか?」
嫌悪感をあらわにした表情で黎がそう訊く。すると、警備員の男は、黎の質問に何度か頷きながら「そうです」と答えた。
「そうなんです。停学期間はずっと寮に立ち入る事も出来ません。それに、最上家はこの丘を下ってすぐの住宅街にあるでしょう? 遠方の生徒でしたら数日は滞在が許可されるんですが、あまりに自宅が近いため、その許可が降りなかったみたいなんです。それと、とても言いにくいんですが……。光彰さんはあなたとの接触も禁止されています。自宅から直接あなたに連絡を取ることも出来ないそうです。ご本人から、あなたにそれを伝えて欲しいと言われました。ただ、あなたの方から、つまり学校から最上家へ連絡を取ることは許可されているそうです。ですから、喫緊の対応が必要であれば、寮の電話を使ってくださいとのことでした」
「せ、接触禁止? ——そんな、じゃあ休みの日に俺が会いに行くのもダメってことですか?」
絶望する黎に、警備員は申し訳なさそうに身を縮めた。
「はい。電話をするのは構わないけれど、接触は許可出来ないそうです。もしそうした場合は、あなたも即停学だそうです」
その言葉に、八木が口を挟む。
「柳野も……? それは彼が昨夜光彰と一緒にいたからですか? でも、あの噂が原因で停学になってるなら、それは柳野には関係ないし、昨日の事が原因だというのなら、どうして今柳野だけ無罪放免になってるんですかね」
そう問いかえす八木に、警備員は「そうですよね。でも、そこは教えていただけませんでした」と項垂れる。
警備員からの説明は、全てが理にかなっているようで、どこか納得がいかない。そんな内容ばかりだった。
「いきなり停学って……なんでだよ。俺たち何もしてないのに……」
警備員は学校側から光彰の処遇についての通達を押し付けられていたのだが、これは本来なら担任の仕事に当たる。
しかし、彼らの担任は今病気休暇中で、市岡がその代理を担っていた。
ただ、千夜が関わる問題においては、市岡は常に使い物にならない。そのため、他の者にその対応を任せたのだろうが、それが警備を委託されている業者だというのがいただけない。




