牡丹の朝露5
「——まずいな」
それは、暑い夏の日に焼けるアスファルトの上に見えるそれに酷似している。人間の周りにそんなものが見えることなど、普通では考えられない。
「どうしかしたのか?」
狼狽える光彰に驚いた八木が、周囲に聞こえないように声をかけて来た。しかし、八木には黎の変化は見えない。その陽炎は、霊障なのだ。それを見る能力を持たない限り、よほどの事がなければ気づく事もない。
「黎に何かが憑いたみたいだ。普段なら防御出来るんだが、怒りのエネルギーが強すぎるんだろう。ここからじゃどうにも出来ない」
「えっ、つ、憑いたって……」
「この学校は地縛霊が多い。気をつけていないと、あいつの体はすぐに狙われてしまうんだ。俺がそばにいれば止められる。だから俺たちは片時も離れず、いつも一緒にいるんだ」
霊媒体質で心優しい黎は、意図せず地縛霊と結びついてしまう事がある。それがいわゆる、憑依の状態だ。
体の一部に、誰でも休める場所を用意してあげているとでも言えばいいだろうか、そこに霊が収まってしまえば、黎の体を自由に操れるようになる。
その状態で黎自身が表に出られなくなってしまうと、もうそれはつまり、柳野黎ではなくなる。地縛霊による乗っ取りが完成してしまうという事だ。いつもはそうならないように、千夜と光彰が交代で彼を守っている。
体を取り戻したいと願っている地縛霊は、驚くほど多い。黎はいわば椅子取りゲームの椅子だ。空いていると思われれば、彼らは遠慮なしにそこを奪いに来る。
そして、それが空いていないと知った時、それが最も怖い。欲しいものが手に入らず、怒りに我を忘れた霊たちが、自暴自棄になり、椅子そのものを壊してしまう可能性もあるのだ。
「なあ、それって放っておくとまずいんだろう? どうする、あいつ一旦部屋に連れて帰るか? その方がいいなら、俺が寮監に話して第一寮まで連れて行くぞ」
八木が光彰のそばでそう耳打ちしていると、黎の体の周りで揺れる陽炎に僅かに変化が起きた。目を凝らしてみると、ぼんやりと人のような形が浮かび上がっている。それは、霊能力のない者達にも見えるようになっていた。
「おい、なんだあれ。柳野のそばに何かいないか?」
普段霊が見えない者にも、その霊がもつエネルギーが大きすぎると、稀にその姿を認めることが出来るようになる。
つまり、今の八木がその状態になっている。彼も黎の背後に現れた人型のモヤのようなものに気がつき、光彰の肩を叩いた。
「な、なんだよあれ!」
慌てる八木に、冷静な光彰の声が応える。
「——女子の制服を着てるな」
「え、あれうちの生徒の霊ってことか?」
「そうだ。ここにはこの学園の地縛霊しかいない。黎に憑依するのは地縛霊だけだ。今あいつがここにいるということは、ここで亡くなった者の霊ということになるから、そうなると生徒に限定される。教師や職員で地縛霊になったものはいないからな」
「ま、マジかよ……。で、その霊は何で柳野に憑いてるんだ? あいつの体を乗っ取るつもりなのか?」
怯える八木の言葉は、すでに隠しようも無いほどに大きなものになっていた。クラスメイトたちが、それを聞いて震え始める。
「え……。な、何かいるのか?」
ざわざわと騒ぎ始めた生徒たちの前で、黎を動かす霊のエネルギー量が増す。次第に、生徒達にもその姿がはっきりと見え始めていた。
女子生徒の霊は、怒りを募らせていた。赤い目を竜のように怒らせ、怯えて震えている集団をぎろりと睨みつける。それを見て、生徒達が悲鳴を上げた。
「わあああああ! なんだあれ! なっ……、なんだあれ! 人がっ、す、透けてんじゃねえか!」
その半透明に見える人型の霊は、今まさに噂の的になっていた者だった。霊という得体の知れないものへの恐怖と、その人物の噂をしていた後ろ暗さからか、ゆらりと揺れるその姿に、集団は短い悲鳴をあげて恐れ慄いた。
「お、お前……。おおおおお小野じゃねえかっ!」
黎の体に浮かんで見えたのは、昨日亡くなった小野の姿だった。
見た目は生きている間とほぼ変わらないが、ぼんやりと発光しながら宙に浮いている。何かを伝えようとしているのか、黎の口を通して言葉を発しようとしているようだ。
あっけに取られて間抜け面を晒す集団めがけて、その透ける小野が怒号を放つ。
『ばっかじゃないの、あんたたち!』
その音の激しさに、教室の窓ガラスが破裂音と共に砕け散った。
「……っ!」
しかし、誰も声を上げることはない。皆、あまりの恐ろしさに、言葉が出なくなってしまったようだ。水面に落ちる餌を待つ魚のように、口をただパクパクと動かしている。
『昨日彼が部屋にいなかったのは、私の頼みを聞いてくれてたからよ。無謀なお願いをしたのに、聞いてくれてたの。そんな人を悪く言わないで!』
小野の霊を背負った黎が、葉咲に詰め寄る。顔を近づけて怒鳴る姿が、黎のものであるはずなのに、小野の霊と完全にリンクしていた。
「だ、だってお前、あんな噂がある中で、しかも寮長のくせに、わざわざ消灯時間を過ぎて外に出るなんて、自分が犯人だって思われるのなんて分かりきってるはずだろう? それなのに、規則を破ったんだ。何か後ろ暗い事があるって、そう言われたって仕方がないだろ」
逃げ腰になりながらも、葉咲は反論する。小野は彼のその反応に、大きなため息をついた。
『だからさ、それがもう少し軽い話ならそれでもいいかも知れないわよ。でも、人殺しなのよ? 私を殺したって……。どうして最上くんが私を殺すのよ。そんなことをして、彼になんのメリットがあるの。彼は意味のないことはしないわよ』
「じ、じゃあお前は誰にやられたんだよ。今答えてみればいいだろ! みんな聞いてるんだ、はっきり答えろよ。それが最上じゃ無かったら、俺も謝るから」
葉咲は怯えながらも、どうしても光彰を犯人にしたいらしく、必死になって小野にくってかかっている。どうやら、彼としては確かだと思える情報を掴んでいるようで、一歩も引こうとはしなかった。
「俺だってしっかりした筋から情報もらってんだよ。そうじゃなかったらこんなこと言うわけないだろ!」
「——はあ、しっかりした筋ねえ……」
光彰は呆れた。しっかりした筋とやらが、こんな風に全くのデタラメを広めているのだろうか。本人である彼がやっていないとはっきり分かっていることを、なぜあれほど自信を持ってやっていると言い切れるのか。馬鹿げた論調を信用してしまうほど、相手は葉咲にとって信用に足りうる人物なのだろう。
『あんた、まだ恵那の事を信じてるのね。少しは疑ってかかったらどうなのよ。あいつ、私が落ちた事も、厚に死なれて寂しかったから後追いしたって言って片付けようとしてんのよ。もう調査はしないって。あんたさあ、私がそんなことをすると思うの?』
小野はそう言うと、黎の手を動かし、葉咲の襟首を掴んだ。




