牡丹の朝露4
今回は、光彰が温田見を使って小野を時計塔へと呼び寄せ、彼女が飛び降りるように誘導したという話になっているらしい。
「これ、きっと俺が錯乱してなかったら起きなかったことだよな。八木くんと光彰が小野さんに気がついていれば、止められたかもしれないのに……」
自分が枷になってしまったという思いが、ずっと彼を責めている。その背中に、無神経な噂話が突き刺さった。
「これさあ、小野も『キングの怒りを買った』ってことだろ? 小野は第十一寮の寮長だから、最上とは度々顔を合わせてたんだし、怒りを買ってもおかしくない。最近よく話してたみたいだし、関わりがないっていう言い訳は通用しないよな。最上が小野を気に入らなくて、千夜の呪い……今回は温田見の呪いか? それを発動させたってことになるんだろう。なあ、八木。お前も気をつけないと、いつか殺されちまうぞ」
以前から陰で光彰のことを悪く言っていた連中が、今は堂々と彼の目の前でそれを言ってのけている。
強い者には立ち向かえず、相手が弱った時にしか戦いを挑まない。そんな奴らの卑怯な嘲りに、黎はついに怒りを爆発させた。
「ふっざけんなよ、このカスどもが!」
机が壊れそうなほどの大きな音を立て、勢いよく席を立つ。そして、その集団の方へと向かって行った。
「黎! おい、やめろ」
しかし、あまりの勢いに、光彰もそれを止める事が出来ない。というより、止めてはいけない気がしていた。あの怒りは、かなり長く抑えてきたものだ。それが我慢しきれないほどに膨らんだのであれば、多少爆発させてあげないと黎が壊れてしまうかもしれない。
——少しだけなら……。
光彰はそう考えて、伸ばしかけた手を引っ込めた。
「もう一遍言ってみろ!」
グラグラと煮えたつ頭を抱えながら、黎は目の前にある椅子を思い切り蹴り飛ばす。金属と堅い木がぶつかる派手な衝突音が、教室中に鳴り響いた。
「きゃー!」
普段はくだらない噂ばかりを吐き出している口からは、方々から耳をつんざくような悲鳴が撒き散らされている。
黎はそれに怯む様子も見せず、周囲の机も巻き込み薙ぎ倒す勢いで集団へと迫って行った。
その姿は、まるで逆鱗に触れられた竜のように、激しい怒気を纏っている。
いつも真っ白に輝く陶器のような肌や艶のある瞳と唇を揶揄われ「麗しの黎」とバカにされているような男の顔は、竜の双眸のように鋭く絞られ、いつも軽率に悪評を流し続ける集団の中心にいる葉咲を睨みつけていた。
葉咲は、その黎のあまりの変貌ぶりに震えながら椅子から立ち上がり、口元を震わせながら後ずさって行く。それでも、まだしっかりと口は嫌味を言い続けていた。
「な、何だよ、柳野。本当のことだろ!」
黎は葉咲のその言葉には全く応じようとはせず、無言のまま、彼が座っている椅子の脚を思い切り蹴りつけた。
「ひぃっ!」
黎が足を振り上げた瞬間、葉咲は自分が傷つけられると思ったのか、ビクリと体を強張らせた。同時に情けない声を上げる。
「つるんで文句ばっかり言って無いで、一人で光彰の目の前ではっきり言ってみろよ!」
「や、やめろって、柳野! ちょっと、本当に……」
散々人を傷つけて見下し、それを楽しんでいた葉咲も、一対一であれば全く何をすることも出来ないようだ。周囲の者たちからも助けはなく、ただ黎の勢いに圧されて震えることしか出来ない。
いつも彼と徒党を組んでいた者たちも、誰もこの事態を収束させる術を持たないらしい。葉咲を心配するのではなく、次は自分が狙われるのかもしれないと、ただ情けなく震えながら、なんとかしてこの場から逃げようとするばかりだった。
「や、やめろってば! ぼ、暴力はだめだろ!」
恐怖に顔を引き攣らせながらも、葉咲がそう叫んだ。その言葉に、黎は一瞬動きを止める。
「——は?」
しかし、それは怒りが消えたからではない。どこまでも自分勝手な事を口走る葉咲に、さらに怒りの温度が上がった。それに費やすための一瞬の間が空いただけだった。
「本当に、ほんっとうに、ふざけんな!」
そう叫びながら蹴り込んだ一発の勢いで、葉咲がバランスを崩して椅子から転げ落ちた。四つ這いで黎を見上げながら、情けなく震えている。
「お前の頭ん中どうなってんだよ! お前が今までして来たことも……、その無神経な噂話だって、立派な暴力じゃないか! 親が多額の寄付金を納めてるからってチヤホヤされてると、そんな事も分かんなくなるのかよ! 言葉での攻撃だって、立派な暴力なんだよ! お前らはいつも暇つぶしのために誰かを傷つけてる。今は俺の大切な幼馴染を侮辱した。それもこれが初めてじゃない。毎日毎日酷い内容で侮辱し続けてた。あいつは傷ついたりしないだろうけれど、あいつを侮辱されたことで、俺が傷ついてたんだよ! それでもあいつとあいつの立場を考えて、ずっと我慢してきてた。でも、もう無理だ。——言葉で説明するだけじゃ分かんねえんだろうから、その痛みがどれくらいのものかを分からせてやるよ。黙って一発ぶん殴られとけ!」
葉咲は、情けないことに黎の剣幕に怯えるばかりで、ついに言い返すことも出来なくなってしまった。床にへたり込み、怒号を撒き散らかす黎をただ震えながら凝視している。
黎が拳を振り上げ、教室が悲鳴と共に一瞬しんと静まり返った。そこに、それまで黙って聞いていた光彰が、黎へ声をかけた。
「黎、それくらいにしておけ」
その声音に、教室がざわついた。その声は丸く柔らかく、クラスの誰もが光彰のものだとは信じられないくらいに優しいものだった。
最上光彰は本来優しい人間だ。そして、柳野黎は彼にとって最も大切な人である。その黎が混乱しているのであれば、落ち着かせたいと思うのは当然だろう。彼はいつもそうして黎を守って来ている。
「あまり我を忘れるな。そうすると、守りが甘くなってしまうぞ」
それでも怒り心頭の黎はなかなか落ち着くことが出来ない。時間がかかるのかもしれないと思った光彰が落ち着くのを待とうとその姿を見守っていると、黎の体から、ゆらりと陽炎のようなものが見えるのが分かった。




