牡丹の朝露2
八木は、黎の様子に驚きつつ、シガーケースからタバコを一本取り出す。そして、ゆっくりと彼の方へと向き直った。
「そうか、柳野は没落の可能性が低いからな……」
吐き捨てるようにそう言う八木に、黎は一瞬表情を固くした。その言葉が意味するものは、基本的に彼をバカにしていることが多いからだ。
黎もそういう態度を取られるのが初めてなわけではない。腹を立てても仕方がないと思いながら、八木に話の先を促した。
「——なんだよ、感じ悪いな。ウチの家のことと温田見くんたちの件にどういう繋がりがあるって言うんだよ」
「いやいや柳野、それを持ち出されて答えに思い至らないってことは、自分が恵まれた環境にいるんだってことを、まず実感してくれるか。そうでないと、あいつらのことは理解出来ないと思うぞ」
「恵まれた環境? まあ、最上と親戚なんだからそう思われるのは分かってるけど」
八木の言葉には、明らかな棘があった。これまで八木が黎と直接言葉を交わすことはあまりなく、あったとしても挨拶や軽い会話のみだった。
初めて交わす深い話が、思ったよりも楽しくないものであったためか、二人とも敵意が見え隠れしている。
「あいつらは、生贄だ。ここで学校に従順な生徒であろうとすれば、親や家に貢献できる。そのために、ずっと優等生を必死に演じてたんだよ。勉強も運動も手を抜かず、生活態度も必死に模範となるように努めた。両親の会社が、なんとかうまく立ち回れるようにという願いが、あいつらを突き動かしてた。薬物なんて、その努力を一瞬で吹っ飛ばす悪魔みてえなもんだ。そこまで頑張ってきた奴らが、自分からそんなものに手を出したりするか? 小野に限っていえば、可能性だけの話なら、温田見からもらったかもしれない。でも、それなら温田見は誰からもらったんだ? そもそも、あいつらに自分からあのシロップを欲しがる理由があったのか、それが疑問に上がるだろう。二人ともすでに進路は決まっていた。そんなタイミングで、自分のこれまでの努力を無に帰する行為なんて、普通しねえだろ。誰かに強制されない限りは、ね」
八木は、オイルライターの蓋を軽い金属音とともに開き、タバコの先端に火を灯した。黎は目の前でタバコを吸う八木にやや驚きながらも、温田見に薬物を押し付ける可能性のある人物について考え始める。
「想像したくはないけれど……、田岡くんかな」
思わずそう零す。すると、光彰が「それはないな」と言って苦笑した。
「おそらく、お前にそう思わせることも計算済みだろう。見た目がそう思わせるのなら、おそらく見当違いだ。田岡がピアスをつけ始めたのは、割と最近だ。それまでは、どちらかと言うと授業に出ない事が純粋に問題とされていたはずだ。見た目はそれに合わせられていったと言った方が適当だろう。むしろ、誰かが意図的にあいつを変えていったと考える方が妥当だ。イメージに流されたらダメだぞ、黎」
そう言うと、黎の髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「いや、だってさ。あんなに反省指導受けてばっかりだと、どうしても素行不良な人を思い浮かべる時に、真っ先に名前が浮かぶだろう? 他に思い当たる人もいないし……」
嗜められたことが気に食わないのか、黎は光彰の手を振り解こうとする。それを見て、珍しく光彰が黎を見る目に冷たい光を宿した。
「だから、それが狙いなんだと言っている。田岡はああ見えてバカじゃ無い。少なくとも、他の何も考えていない連中とは違って、自分が何をさせられているのかは、きっと理解しているだろう。それでも、自分をいいように利用しているその人物に従うしか無い、それに抗えない何かがあいつにはあるんだ。だから俺に託したんじゃ無いだろうか。『牡丹の朝露』って言葉を。あの時は何を言ってるのかと思ったんだが、おそらくあれは俺に何かを知らせようとしているからこそ出た言葉だろうと思う。まあ、そんな風に言いながらも、俺も今気が付いたんだけどな」
「ああ、その言葉な。気になるよな。結局どういう意味なんだろう。俺、全然分かってないんだけど……」
黎は光彰に問いかける。八木もその言葉には、まだ検討がついていないらしかった。
そうして三人が沈黙した、ちょうどその時だった。
時計塔に面した窓にかかるブラインドの向こうに、何かがきらりと光る様子が見えた。
「——なんだ?」
八木の部屋の正面には、あの時計の文字盤が見える。三人は、そこにあのニセ千夜が現れたのかと思い、様子を確認するべく、ブラインドを全開にした。
「この時間だとこっちは月明かりが届かねえから、文字盤の輝きが映えるな」
八木がそう言いながら、外を照らすものを探していると、窓の外でドスンという鈍い音と衝撃が響いた。三人の間の空気に、緊張が走る。
「おい、今の音……」
部屋の空気が凍りつく。
しかし、三人はすぐに気を取り直すと、窓を開けて時計塔の周囲を見渡した。音はすぐ近くで鳴ったように聞こえた。灯りがあれば、すぐに確認出来るだろう。
「八木、見廻用の懐中電灯を持って来てくれ! 階段室前になにかいる!」
光彰が声を上げると、八木は部屋のドア付近にかけてある見廻用の懐中電灯を取り出した。光彰はそれを受け取ると、時計塔の入り口である階段室のドアを照らす。
見廻用のライトは白色LEDで、第二寮と時計塔の間くらいであれば楽に見通せるものだ。文字盤の下へと真っ直ぐに光を下ろし、階段室のドアを照らす。
暗がりの中に、僅かに見えた腕と頭。それに気が付いた黎が、短い悲鳴を上げた。
「み、光彰……。あれ、人だ。また誰か落ちたんだ……」
懐中電灯の真っ白な光の中に在る黒い塊からは、腕がまっすぐに突き出しているように見えていた。その手は何かを求めるようにして、真上に輝く時計塔の方へと真っ直ぐに伸びていた。その指先の指し示す上空には、ニセ千夜が妖しい笑みを湛えて浮かんでいた。




