八木の秘密3
普段冷静な彼にも、その言葉だけは感情を露わにせずにはいられなかったようだ。しかし、それは仕方がないことだろう。千夜の存在は、それほど彼にとって大切なものだったのだ。
光彰には妹しかいない。柳野千晃という人物は、彼にとって唯一の頼れる存在だった。
最上の家を継ぐプレッシャーに疲れた際には、いつも千晃を頼っていた。他に吐き出せない弱音を、千晃はいつもただ黙って聞いてくれていた。
それがどれほど光彰を支えてくれたか、そう考えると、この怒りは自明の理と言える。その恩を強く感じていたからこそ、光彰は彼が最も困っていた時期に、迷わず手を差し伸べたのだ。
——「ねえ、光彰。僕、女の子から告白されても好きになれないから、その度にずっと断ってたんだ。そうしたらさ、だんだん周りから『柳野、お前モテるからって調子に乗ってるだろう』って言われるようになってね。いつの間にか、男女問わず嫌われるようになっちゃった。卒業までまだあと一年残ってるのに、学校じゃずっと一人ぼっちなんだ。寂しいよ……」
十五歳の千晃は、二次性徴が進むにつれて、深く悩むようになっていた。その時期に言われの無いいじめを受けているのだと告白し、珍しく涙を流す彼に、光彰は彼との恋人関係を偽装することを持ちかけた。
当時の光彰は、まだ小学六年生だったのだが、成長の早かった彼は、この時すでに千晃と並んでも同級生に見えるような体格をしていた。それを活かしての提案だった。
偽装恋人作戦は、そんな彼だからこそ行えたものだった。二人で一緒に登下校したり、買い物に行ったりという、友人とも恋人とも付かないような関係を、三年ほど続けた。
彼にとっては、ただ仲の良い従兄弟と遊んでいる事と対して変わらないと思っていたため、それほど苦にも感じなかったらしい。
付き合い始めの頃はまだ弱音を吐いていた千晃だったが、光彰の存在が周囲に浸透するにつれていじめは収まっていった。
そして、千晃はそれ以降どんな逆風が巻き起ころうと、決して負けなかった。気がつくと、気が強くて口も達者で自信に満ち溢れた、今の千夜の姿へと変貌していた。
——「光彰、ありがとう。あんたがいたから、私はここまで幸せに暮らせたのよ」
体が男性のままであっても女子生徒扱いとして高等部へ進むことが出来るとわかった時、彼女は光彰にそう言って感謝を述べた。
それから千夜が十八歳になる年まで、二人は偽装恋人の関係を続けた。彼らが別れたのは、千夜に好きな人が出来たからだ。そして、その人とは最終的に交際にまで発展している。
そうして、壁にぶつかってもめげず、常に笑顔で生きていた。それが並木千夜という人だった。そんな彼女がクスリを使用していたなどと、可能性を述べただけにしても、光彰にはどうしても許す事が出来ない。
「もちろん、俺もそう信じたいよ。でも、君は知ってるんだろう? 彼女の体にメスカリンが付着していたっていうこと。そのことは辰之助さんから……」
そう言って詳細を説明しようとする八木の口を、光彰は手を伸ばして塞いだ。鋭く睨みつける目には、怒りではなく、深い悲しみの色が浮かんでいる。
「——ああ、それは分かっている。千夜の足に付着していたのは、確かにメスカリンだ。そして、中毒症状があったことも知っている。でも、あれは小野が持っていた甘味料のように経口摂取したものじゃない。千夜があんな物を自分の意思で口にするわけがない。あれは……直腸投与されたものなんだ。千夜はまだ性別適合術を受けていなかった。そして、深い間柄の恋人がいた。そういえば、お前にも意味はわかるか?」
苦しそうに眉根を寄せてそう呟く光彰に、八木は黙って頷いてみせた。
「それはつまり、誰かが……、というよりは、その交際相手が千夜さんの体の中にメスカリンを放置したと考えてるってことか? でも、それこそ自分でやったかもしれないじゃないか。そんなの誰がやったかなんて証明することは不可能だろう? もう指紋も取れないんだぞ」
八木が光彰を嗜めるようにいうと、彼は僅かに被りを振った。そして、深く息を吸い込むと「出来ればこんなことは話したく無いんだが」と前置きをした上で、千夜がメスカリンを摂取したのは第三者によるものだとする根拠を述べ始めた。
「まず、お前は知らないかもしれないが、自分の直腸の奥の方まで指は届かない。しかし、千夜の体のその部分に、あのカプセルのようなものの残骸があったそうだ。それと、少し無理をして入れたような傷もあったらしい。さらに、足とスカートに乾燥して粉状になったものが付着していたそうだ。お前は父さんからその話は聞いてないのか?」
「そうだな、それは聞いてない。メスカリンが体内から検出されたと聞いてるから、違法薬物に手を出してたのかと思っていただけだ。でも、言葉は悪いがそんなところから検出されたのなら、確かに自分でやったんじゃ無いかもしれないな。よほど上手く道具を使ったとかなら話は違うかもしれないけれど、そんな形跡があったのなら、最上家が俺にこの件を調べるように言う訳がない」
八木は困惑の表情を浮かべてそう答えた。
それに対して光彰は「そうだろう?」と言うと、ほっと安堵の息を吐き、黎の髪を手で梳いた。
「千夜はそんなことはしない。そうだよな、黎」
黎の瞼が、それに応えるかのようにピクリと揺れる。彼の指からサラサラとこぼれ落ちていく黒髪は、蝶の放つ青い光を受けて、幻想的に煌めいていた。
「千夜が誘うようにして転落するというおかしな状況と、薬物使用の疑いがあると分かっているのに学校がそれを隠蔽しようとしているのなら、千夜がどんな状況で亡くなったのか、その詳細を調べられたくは無いだろう。だからこの二年間、お前が潜入していても、その情報に触れることが無かった、俺はそう思っている。ただ、父さんがお前にこのことを言わなかったのは、千夜のためだろう。父さんは、早くから千夜を女性として扱っていた。彼女の許可なく、その体に関する話を、不必要なことまで人に話すわけにはいかないと、そう判断したんだろう。ただ、お前が自力でこの情報に辿り着くのは構わないと思っているだろうし、もしそうなるならお前にそれを知らせるのは俺だということも承知の上だろうな。千夜にメスカリンが付着していたことを知っているのは、最上の人間だけだから」
八木はその言葉を聞いて、はっとした。並木千夜を始め、飛び降りた生徒たちは、いじめを苦に自殺をしたと見られている。くどいようだが、警察も早々に引き上げていて、もちろん解剖などしていない。
「そうか、事情は異なっていても、疑いなく自殺として片付けられている以上、解剖をする必要がなかった。全員そう結論づけられているってことは、どこの家庭も、我が子が薬物依存だった可能性があるということは、考えてもないってことだよな」




