誘惑4
「やーびっくりした。壁に激突しそうなのに、君、全然躊躇なく突っ込んで行ってたもんね。危なかったんだよ。ちゃんと分かってる?」
「ああ、そうだな。それでも黎だけは守りたかったんだよ。だから、お前が来てくれて助かったよ。ありがとう、八木」
体を起こした八木は、体育館側に浮かぶ月を眺めながら「どういたしまして」と笑う。その視線の先には、まだぼんやりと満月の光が揺蕩っていた。それを眺めながら、八木はある提案を始める。
「ねえ、最上くん。僕実はね、一連の騒動に出てくる幽霊の正体が分かったかもしれないんだ。——と言うよりは、僕は最初からそうかもしれないと思っていたものがあって、その証拠を集めたかった。もし僕の思ってる通りだとすると、それを検証する必要があるんだ。それで、君の力を借りたいんだけれど……」
抱きしめていた黎を光彰の腕の中へと移しながら、八木は光彰の想像もしていなかったことを言い始めた。彼が出せずにいる答えを、八木は出しているかも知れない。最上の力を持ってしても出せない答えを、なぜ一般生徒である八木が出せているのか……。彼には、その理由が分からないようだ。
「幽霊の正体? それは、千夜のことか? それとも温田見のことか? 俺も今見たアレが幽霊じゃないことだけは、ついさっき確信を得た。ただ、じゃあアレはなんなのだと聞かれても、それはまだ分からない。お前にはアレが何なのかが分かったのか? お前にはそういう特殊な能力でもあるのか、八木。悪いが、俺の目にはそういう風には見えないんだが……」
八木はその光彰の問いかけに、ふっと笑いながら、無言でこくりと頷く。
「残念ながら、君の言う通りなんだな。僕には特殊な能力は何もないよ。ただ、情報なら持ってる」
「——情報を持ってる? お前が?」
その言葉の意味を図りかねた光彰は、眉間に深いシワを寄せた。八木はそんな彼の様子を見て、またくすりと笑う。
そして、ポケットから綺麗に折りたたんだ小さな紙片を取り出した。それを開くと、光彰にある提案を持ちかける。それはあまりにも意外な言葉だった。
「最上くん、今から僕の部屋に来てくれないかな。実はもう君たちの申請に追加して、僕が『他寮棟への宿泊申請』を出していて、もう許可も貰ってるんだよね。どうしても今日中にしておきたい話があるんだ。だから、今から来て欲しいんだよ」
八木はそう言うと、その紙片をきれいに伸ばして光彰へ見せた。それは、間違いなく他寮棟への宿泊届そのものだ。
その申請書の受領者名は、光彰たちが持っている申請書に記載されているものと同じ。つまり、先ほどの警備員が受付をしたことになる。
疑う必要は無いのだろう。だが、なぜ八木がここまでして光彰のために動こうとしているのかは、まるで分かっていない。
彼は、大人しくはなったものの、今も虚な目でぼんやりとしたままの黎を抱きしめると、八木がそこまでの信用に足る相手かどうかを推し量った。
「幽霊の正体が分かったとして、なぜお前がそこまでする必要があるんだ。明日コミュニケーションルームで話せば、誰にも咎められる事は無い。今無理をすると、お前のこれまでの行いが全て無駄になるかも知れないんだぞ。ここは、少しでも恵那の気に食わないことをすると、即処分を受けるような場所だ。分かってるのか? その話をするために、お前の将来を捨てることになるのかも知れないんだぞ。——お前はそれでいいのか?」
八木は光彰にそう問われると、彼の想像とは全く異なる表情をしてみせた。それは、まるでその問いを期待していたかのようだった。彼の顔には満面の笑みが浮かんだいた。
「うん、分かってるよ。だって、僕にとっては、この事に目を瞑ったままでここに止まるなんて、その方が意味が無いことだからね。この問題の解決は、何よりも僕のためにする事なんだよ。君たちを助けたいっていう意図ももちろんあるけれど、それよりも、まずは自分のためにそうしたいと思ってるんだよ」
八木は高等部からの編入組で、成績優秀者であるために学費が免除されている、所謂特待生というものにあたる。最上家の持つ育英会プログラムがそれを支持しており、その事が原因となって周囲から軽んじられている。
ここの生徒たちにとっては、成績など二の次で、家の後ろ盾が強大である事が何よりもステータスとなる。八木はその理屈で言うと、底辺にあたるのだそうだ。
そんな環境下でも自分なりに指標を持って学生生活を送り、あと数ヶ月で卒業するところまで来ている。それなのに、規則を破ってまで幽霊の正体を暴かないといけないと言っている彼は、異様な執念をその瞳に秘めていた。
「そうだ、急いだほうがいいと思ったのには、もう一つ理由があるんだ。君は噂の中とはいえ殺人犯の疑いをかけられている。その上、田岡くんが君たちを狙っているみたいなんだ。それで、急いで話したほうがいいと思って……」
「田岡が俺たちを狙ってる? ——どういうことだ」
思いもよらない名前が出たと思い、光顕は落胆の色を見せた。しかし、田岡の状況を考えると、そう意外なことでもないのかも知れないと思い至る。数時間前の自分が、彼にそう言ったのを思い出していた。彼がこの学校で生き残ろためには、誰かの後ろ盾が必要なのだ。
「ここ最近の彼は、二人の何かを探っているような動きをしていたんだ。そして、今日の夕飯の後に、葉咲君たちがそう噂しているのを、僕が偶然聞いてしまったんだよ。しかも、わざわざ第二寮に来て話してたんだよね。どういう事だろうと思って、僕は田岡くんの後をつけたんだ。今君たちがここにいることを僕が知ってるのは、彼をつけた時に誰かにこのことを報告してたのを聞いてしまったからなんだよ」
「あいつが俺たちのことを探って、誰かに報告をしてるということか? 相手は誰だ?」
「電話だったから、相手は誰だかわからないんだけどね。間違いなく、君たちの生活を監視して、誰かにそれを報告してた」
「全くあいつは……。あれほど関わるなと言ったのに。まあ、無理なんだろうが……」
光彰は田岡の無邪気な笑顔を思い出していた。
彼は、素行が悪いとは言え、その行動にはいつも理由があった。何も考えずに反抗をしていられるほど、今の彼はいい身分ではない。その彼が、光彰たちを見張っているとは、一体どういうことだろうか。




