誘惑3
「くそっ、油断した。黎、待て!」
走り出した黎の向かう先には、生垣の向こうに夜を越えて白み始めた空に、朧げに浮かぶ月が頼りなく輝いている。その月明かりの下を、温田見の霊が吸い寄せられるように移動していた。
生きている人間であれば、そのまま真っ直ぐ進んでしまえば、コミュニケーションルームのガラス壁へとぶつかるだろう。見るも無惨に叩きつけられてしまい、そこは血に塗れてしまうかも知れない。
しかし、温田見はそうはならなかった。瞬きする間にそれをするりと通り抜けてしまったのだ。これで、彼は生きた人間では無いことが証明された。
よほどの腕を持つマジシャンでも無い限り、壁抜けという芸当など不可能だろう。そう思って眺めている光彰の目の前で、彼は何かから解放されたように校庭を滑るように走り抜けて行った。
初夏の晴れた夜、大きな月の浮かぶ校庭の下を走る、白く光り輝く男子生徒の後ろ姿。その自由への逃避のような様に、光彰は一瞬目を奪われた。
温田見厚という人間が、生きている間にあんなに自由を謳歌したような笑顔を見せた事があっただろうか。あんなに、活力に満ちた動きをしていた事があっただろうか。そう思うと、言いようもなく胸が痛んだのだ。
しかし、すぐにあることに気がついた。温田見はガラス壁をすり抜けて行ったのだ。そして、黎はそれを追いかけている。あの勢いで走って行けば、彼は壁にぶつかってしまって大怪我をするだろう。そう気づき、光彰は息を呑んだ。
「黎! 止まれ!」
光彰の手元を逃れてからずっと、彼は夢を見ているような儚い笑顔を湛えている。その表情を保ったまま、まるで吸い込まれるかのようにして黎は壁に向かっていた。
そこに激突する寸前の黎の姿を見て、光彰は恐怖に囚われた。
——このままでは、確実に間に合わない。
自分には、彼を助けることが出来ない。それが、はっきりと分かってしまった。黎が自分で止まってくれないとどうしようもないのだ。
もし、光彰がスピードを上げて彼に追いついたとしても、ガラスにぶつかる前に止まる事が出来ないだろう。二人でその勢いのままに壁にぶつかり、大怪我をする可能性が高い。
「黎! 頼む……、止まってくれ……っ!」
解決することは出来ないとわかっていても、どうしても諦めきれずに、光顕は必死になって走った。二人でぶつかるのなら、自分が壁にあたるように抱き抱えよう——そう考えたその時、突然第二寮の方から黒い影が現れた。
まるで野生動物のようにするりと光彰の隣を抜け、驚くほどの速さで黎のそばへと駆け寄って行く。そして、そのまま黎へと飛びかかって行った。
暗いコミュニケーションルームの中で、月明かりに照らされた黒い猫のようなその人物は、しなやかな動きで彼を捕まえると、美しい弧を描いて半回転しながら彼を壁から遠ざけ、そのまま床へ飛び込むようにして勢いを殺した。
ドスンという重く鈍い音が一つ響く。そのまま二人は、絡まり合ってぐるぐると回転した。
「——ってぇっ!」
コミュニケーションルームには、外を眺めて寛ぐためにロータイプのソファがいくつかある。そこには、日頃のプレッシャーから解放されるためにと寮監が準備してくれたクッションがたくさん置かれていた。彼らはそこに体をぶつける形でどうにか止まる。バタっと黎の脱力した手足が投げ出される音が響いた。
「黎っ!」
倒れたままの二人の元へと光彰が駆け寄ろうとする。すると、黎を抱えたまま唸っている男の近くに、見慣れた黒縁メガネの残骸が落ちているのが目に入った。
「このメガネ……おい! おい、大丈夫か?」
割れたメガネを見て飛び出した影が誰なのかを察した光彰は、すぐに気を取り直して二人の元へと駆けつけた。
「八木! お前大丈夫か?」
無惨な姿に変わり果てたメガネの持ち主は、光彰と同じクラスの八木だった。
八木は黎をしっかりと抱えたまま、クッションの中に埋もれている。転倒する際に自分を守る余裕は無かったのだろう。最後はクッションの塊の中に突っ込んだとはいえ、最初に落ちた場所はコンクリートにリノリウムが貼られているだけのところだった。手をつかなかったのであれば、たとえ受け身をとっていたとしても、衝撃は相当なものだったと言える。光彰は、彼の体へのダメージを思うと、気が気では無かった。
「大丈夫か? お前、思い切り背中から落ちただろう」
八木は呻きながらも、なんとか起き上がる。そして、光彰の声に「うん、なんとか。大丈夫だよ」と答えた。そして、ふうっと軽く息を吐き、安心したように微笑む。
「最上くん、良かった。無事だったんだね。幽霊に殺されてたらどうしようかと思ったよ」
そう言って、ふわりと笑った。
「——は?」
光彰は、八木のその言葉に妙な違和感を覚えた。
学校中が彼を殺人の首謀者だと思って面白がっている時なのだ。噂通りのことが起きているのであれば、光彰が誰かの命を狙っていると思うのが大多数の意見だろう。それなのに、八木はどうも彼を心配しているように見える。
さすがの光彰も、こんな状況下では、いくら八木といえども彼の味方をしたりはしないだろうと踏んでいたようだ。その真逆とも取れる言葉をかけられて、彼はひどく驚いていた。
「お前、もしかして俺のことを心配してくれてるのか? この学園のほとんどの人間が、俺の事を一連の事件の首謀者だと思っているんだぞ。それなのに、お前は俺が被害者になり得ると思ってるのか? それは……どうしてだ?」
そう言うと、呆れたように目を見開いた。その表情を見て、今度は八木も同じような顔になっていく。
「うん、心配してるよ。だって、君は好き好んで呪いとかそんな周りくどいことをする人じゃないよね。そんなことをするくらいなら、直接対決を望むだろうなって、僕はそう思うんだ。だから、ずっとあの噂はおかしいと思ってた。普段は何が起ころうと我関せずだけれど、何かが起きた時には、怯まずに真っ直ぐに突き進む。それが最上くんだと思うからね。千夜を使って誰かを呪い殺すだなんて、そんな馬鹿げた噂、僕は一度も信じたことはないよ」
八木は自信満々にそう言い切ると、光彰に「そうでしょう?」と問いかけながら笑った。その笑顔は、昼間の陽の光のように温かくて柔らかい。不意に与えられた人からの優しさに当てられたのか、光彰は込み上げるものを押し込めるかのように、唇を噛んだ。
「——ああ、そうだ。ありがとう。さすがに毎日関わりがあるだけあって、俺の事をよく分かってくれてるんだな」
そして、光彰も八木へ似たような笑顔を返した。




