誘惑2
「おいっ、ちょっと待てってば……」
慌てる黎を尻目に、光彰は何も気づかないふりをして先を急ぐ。これから先の時間には、黎にとっては恐ろしいものであっても、光彰にとっては多少役得な事も待っている。そのことに、黎はまだ気が付いていない。
「今から探そうとしている幽霊がもし逃げてしまったとしたら、俺たちは壁をすり抜けて追いかけたりすることは出来ないだろう? だから、追跡は千夜に頼んであるんだ。あいつはいつでも出て来れるように、ある場所で待ってくれている。それがどこなのかは、今はお前にも内緒だ。で、俺たちはなるべく霊の近くへ行って、相手がナニモノなのかを確かめる。だから……、いい加減に覚悟を決めろ」
そう言うと、光彰は心底楽しそうな表情を浮かべて、妖しく口の端を持ち上げた。
「なんでお前はそんなに楽しそうなんだよ……」
「まあ待て、それはすぐに分かる。——よし、まだ何もいないみたいだな」
光彰は、目を細めながら、廊下から第一寮のコミュニケーションルーム内を覗き込んだ。
自習室とコミュニケーションルームの間は半分がガラスになっていて、室内が見渡せるようになっている。
使用する際にプライバシーを保ちたい場合は、室内にあるスイッチを押せばすりガラスへと変わる仕様になっているため、イベント前の更衣室として利用する生徒も多い。
今は誰も使っていないため、部屋の中は簡単に見渡せる状態になっていた。
「え、ここから覗くのか?」
「いや、違う。ここじゃあ、相手からも俺たちを見る事が出来るからな。ほら、自習室と自習室の間にちょっとした隙間があるだろう? あれは、そのまま外部と繋がってる場所なんだが、パイプスペースとして使用するはずだったスペースがあるんだ。途中で浴室の場所を変更したから、今はそこは空いている。狭いが、そこに隠れるぞ」
「パイプスペース? 二人で隠れるにはかなり狭そうだけど、大丈夫か?」
それを聞いて、光彰はニヤリと笑った。
「——俺がお前を抱きしめておけば大丈夫だろう?」
「ああ、それならまあ、——へえっ? だ、抱きしめる?」
その不適な笑みと状況に、黎は顔を真っ赤にして絶句した。
確かに図面を見る限り、そうでもしないと入りきれないような狭い場所だった。だからと言って、それを堂々と言ってのけられると、多少なりとも羞恥が湧く。
光彰は、そんな彼の姿を見て、楽しそうに笑った。声を出して笑う訳にはいかないため、笑うというよりは苦しそうに顔を歪めている。
「ふっ……、お前、大丈夫か? 絶対に騒ぐなよ。渦中の霊を拝まないと、頑張って申請を出した意味がないからな。警備の者の親族が務める会社へ連絡して、新しい顧客を紹介する代わりに、彼らの待遇を改善してもらったんだからな。調べた結果は、小野へ報告をしなければならないんだし、お前もしっかり確認するんだぞ」
そういうと、パイプスペースになる予定だった狭小な場所に黎を座らせた。
「わ、分かったよ」
光顕は渋々彼の言う事に従った黎の頭を優しく撫で、その後ろへとするりと入り込む。そして、言葉通りに少しでもスペースにゆとりを持てるようにと、黎の体に回した長い腕で彼を引き寄せ、二人の隙間を埋めていった。そうして、ガラス戸へ目だけが見えるようにしてしゃがみ込む。
「う、結構苦しいな」
「そうだな。まあ、少しの間だから我慢してくれ」
そのまま二人で第一寮の自習室の中を覗きつつ、温田見の霊と思われるモノを待った。
カチコチと鳴る時計の秒針の音だけを聞きながら、彼らはひたすらに霊が現れるのを待った。光彰の鼓動を背中に感じながらも、これ以上動揺を大きくしないために、黎は小野との約束を果たす事に意識を集中する。
丑の刻を過ぎ、虎の刻へと差し掛かったその時、そのギリギリのタイミングで、ようやくソレは姿を現した。
「光彰……!」
「しっ、大声を出すな。いいな?」
黎はかろうじて悲鳴を上げるのを抑えた。両手で必死に口を塞ぎ、目を瞠る。自習室の壁際に現れたのは、ぼんやりと白く光る温田見の姿だった。
その姿は、生前の彼とほぼ変わらない。小野がここにいたら叫び出してしまうのではないかと思うほど、いつもの彼がそこにいた。
「噂の霊は、やっぱり温田見くんだったのか。生きてた頃と変わらない姿に見えるぞ」
二人は目の前の温田見の姿に驚きつつも、次第に彼の行動の方へと興味を移していった。彼はしきりに周囲をうかがい、何かを探しているような素振りを見せている。
「なあ、あの動き……。何かを探してるよな」
黎の問いかけに、光彰は頷く。彼が本当に浮遊霊となっているのであれば、あれが心残りの原因だろう。そう思わせるほどに、その執着は強そうに見える。
「そんな感じに見えるな。あいつ、落とし物とかしなさそうなのに……」
そう言っていると、突然その温田見の目が、彼らのいる方へと向けられた。バチっと音がしそうなほどに、しっかりと目が合う。すると、その視線を通して、びりっと電流が走るように、空気に緊張が走った。
「光彰、どうしよう。目が合ったぞ」
「——気づかれたな。黎、念のためそろそろ……」
部屋へ戻る準備をしようと言いかけた光彰の声に反応するように、温田見の目がじわりと黄金に輝いた。彼には、それが何を意味しているのかが分からない。数回明滅するように光ったそれは、何かアクションを起こされることもなく、次第に薄らいでは消えていった。
「今のは何だったんだ?」
モールス信号のような点滅を繰り返し、その光はすぐに消えた。光彰の身には、何も起きていない。しかし、何か得体の知れないことが起きるような気がした彼は、その場を確認するために立ちあがろうとした。
そのために、自分が抱き抱えている黎を立ち上がらせようとして、彼の肩を軽く叩く。すると、なぜか黎が突然勢いよくその場を立ち去ろうともがき始めた。しかし、狭いスペースでの行動であるためか、うまく立ち上がれない。
「黎、どうした。急に動くと……」
絡みつくようなお互いの手足を解くと、黎は不意に立ち上がった。その手を光彰が掴む。しかし、黎はそれを無言のまま激しく振り解くと、するりとその場を抜け、走り出して行ってしまった。
「——っ、黎!」
光彰はすぐにもう一度手を伸ばしたがわずかに届かず、その華奢な体は舞うようにふわりと遠ざかる。まるで、千夜が光彰の手から逃れて陽光の下を堪能していた時のように、軽やかに舞いながら離れていった。




