誘惑1
光彰は千夜に恋愛感情を持っていたわけではないが、彼女は彼が唯一心からの信頼を寄せていた人物だった。大切な存在である彼女が、生きているとはいえ動けず、口もきけなくなってしまった。
なぜそんな事になってしまったのか、その理由が分からずに苦しみ、それでも生きて行くためにどうにか気持ちを切り替えようとしたところ、あろうことか、彼女は生き霊となって戻って来た。
小野は光彰と同じように苦しみ、温田見は千夜と同じように彷徨っている。二つの出来事の間には、そういう類似点がある。
そして、だからこそ光彰が懸念していることが一つある。それは、霊が生前の記憶を持っていない可能性があるということだ。
彼は以前、千夜が亡くなった時の詳しい事情を、生き霊となって戻って来た彼女に確認しようとした。千夜の件は、彼女が足を踏み外して落ちてしまったという彼女自身の過失による転落事故として結論づけられている。ただ、光彰には色々と引っ掛かることがあり、それを調べようとしていた。
しかし、霊体となって戻って来た彼女は、自分が並木千夜として過ごしていた人生の後半の時期のことを、ほとんど覚えていなかった。そして、これは第一寮に現れている男の霊にも当てはまる可能性がある。
つまり、その霊が本当に温田見だったとしても、彼が亡くなった時のことを覚えているかどうかは、誰にも分からない。その事を知った時に、さらに彼女は傷つくのではないかと、光彰はそれが気がかりだった。
そして、もう一つ。彼は何よりも、第一寮に出ているというその霊の存在自体に違和感を抱いている。もし本当に寮に霊が現れているのなら、光彰には分かるはずなのだ。しかし、彼には今のところ、そういう気配を感じていない。
つまり、これまで時計塔に現れていた霊以外に、新しく増えた霊体はいないはずだ。そして、この学校に自分以上に霊能力の強い人間はいない。それなのに、第一寮に霊が出ているという噂が回っている。その事が、何よりも気に入らなかった。
その霊は、なぜ光彰のセンサーに引っかからないのか。彼は、最上の後嗣として、その理由をはっきりさせねばならない。
「なあ光彰、自習室に霊が出るのを確かめるってさあ……。もしかして、自習室の中で霊が現れるのを待つのか? 俺、あんまり近くで見るのはちょっと嫌だなー、なんて……」
真っ暗な廊下の中に、非常灯の灯りだけが浮かぶ深夜二時。幽霊に会うとなれば、やはりこの時間なのだろう。
草木も眠る丑三つ時。この時間にだけ跋扈することを許されるという、ある意味不憫なもの達が、そこかしこにいるという、最も恐ろしい時間帯だ。
日中賑やかしいその広間は、今や不気味なほどにに静かで、壁時計の秒針の音だけが鳴り響いている。
「なんだ、黎。もしかして、怖いのか?」
目を細めるようにして笑い、光彰が黎を揶揄う。黎は、そんな幼馴染の意地悪さに腹を立て、一瞬意地を張ってそれを否定しようとした。しかし、何か思うところがあったのだろう。すぐにそれをやめると、驚くほど素直にそれを認めた。
「そりゃあお前、普通は怖いだろ。だってさー、月夜は千夜が出るじゃねーか……って、ああ、そうか。千夜は千晃兄さんなんだもんな。そう考えると怖くないのか……んぶっ!」
もし現れるのが千夜だというのであれば、黎はそれを恐れる必要がなくなる。一縷の望みのような気がして思わず大きな声を上げそうになった黎の口を、光彰が慌てて手で覆った。
「黎、だめだ。それは俺たちだけの秘密だ。誰にも知られないようにしろ」
そして、もう一方の手では、その長い指をすっと自分の唇にあてがっている。まるで小さな子供に言い聞かせるように、「しーっ」と彼を嗜めた。
「どこで誰がこの話を聞いているかわからないのだ、慎重になってくれ」
そうして、黎に悪戯っぽい笑顔を近づけながら、釘を刺してくる。
「絶対だぞ」
その横顔に、体育館の上に昇った月の光が真っ直ぐに届いていた。
それは幻想的な陰影を作り、彼の顔にまるで彫刻のような美しさを纏わせる。黎はその光彰の醸し出す雰囲気に、はっと息を呑んだ。
霊を使役する力を得ると、この世とあの世の境に存在するような者となるのだそうだ。だからだろうか、光彰は時折人間とは思えないような、不思議な色香を放つ事がある。
黎は、今まさにそれに当てられてしまっていた。背筋を震わせながら「わ、かった」と返事をするのが精一杯という顔をしている。
「こんな満月の夜には、千夜が現れると言われてるな。でも、本物の千夜は、今日は絶対に現れないぞ。俺は千夜に別のことを探るように頼んでいる。だから、もし千夜が現れるとしたら、それは確実に偽物だ」
「あの時計塔で見た、ニセ千夜ってことか」
黎は時計塔で大きな声を出してはいけないと言われた時のことを思い出したのか、声を顰めてそう尋ねる。すると、光彰はそんな彼を揶揄うように微笑み、
「そうだ」
と囁き返した。
この学園の生徒達は、千夜は月夜が好きであるため、満月の夜には必ず彼女が現れるのだと信じている。
だから、満月の夜に時計塔に行けば、暗闇に浮かぶ黄金色の時計塔の尖塔台座に座り、静かに月を愛でている千夜の姿が見られるのだと言われていた。
光彰はその噂を利用していて、千夜に隠密行動を頼むのは満月の夜に限定している。もし生徒に霊感がある者がいて、調査中の千夜を目撃されてしまったとしても、噂が少し増える程度で済むからだ。
「ところで、もし霊が現れたとしてよ。お前はどう思ってるの? それが温田見くんだと信じてるわけ?」
「——さあな、それは俺にも分からない。だから、それを確かめるんだろう? ほら、早く行くぞ」
「えええー、やっぱり怖いんだけど……。どうしても近くに行かないとダメか?」
恐ろしさからか、震えながら意味もなく体を丸めて歩く黎に、光彰は笑いを堪える。そして、徐に黎の手を掴むと、容赦無く目的地へと向かって彼を引っ張った。




