ペナルティ5
「柳野、お前優しいなあ。俺全然平気なのに、お前めちゃくちゃ傷ついた顔してるぞ。でも心配するな。変なことは何もされてないから。今みたいに、こう、手を上げた時とか、何かの拍子に見えたんじゃねえかな。恵那が見つけたんだし。あいつが素行の悪い生徒を見張ってても、全然不思議じゃねえだろ?」
田岡はそう言うとピアノを丁寧に吹き上げた布を置き、今度は才見から手渡されていた筆を使って、その細かい部分の埃を払い始めた。
「そうか? それならいいけど……。今の校長はあまりいい噂を聞かないだろう? 私利私欲のためならなんでもするような人だからな。そういう人に生徒が傷つけられるのは、何だか嫌だと思って。お前、本当に何もされてないんだよな?」
念を押すように尋ねる黎に田岡は、
「大丈夫だって! もし恵那に何かされたとしても、その時はさすがにぶっ飛ばして逃げるよ。腕力でなら勝てるだろうから。それより、恵那が私利私欲のためなら何でもするって話ってなんだ? もしかして、温田見の事故の件を言ってるのか? あいつまたろくに調べようともせずに、自殺で片付けようとしてるらしいよな。そういう意味では、確かにあいつは恐ろしいよ。自分が理事になるためなら、都合の悪い事は全部隠蔽するつもりみたいだし、何でもするみたいだからな」
「何だよ、何でもって……。お前、何を知ってんの? 怖いんだけど」
黎は、この学園の暗部に関して誰よりも詳しいのであろう田岡が、恵那の闇について語る事に背筋が冷える思いがした。彼の情報は、ある意味葉咲よりも信頼出来る。おそらくその出所が、恵那ではなく戸田夫妻だと思われるからだ。
田岡はそれに構わず、恵那についてさらに詳しく触れようと口を開いた。しかし、それまで成り行きを見守っていた光彰が、突然二人の間に割って入る形で話を遮っていく。
「やめておけ、田岡。それ以上は話さなくていい。無闇にそういう話をするもんじゃない」
光彰は、田岡に対して構えるように、半身の姿勢で黎の前に立っていた。恵那に関する話をそれ以上するなと諫めるその声は、とても重く低い。うっすらと怒気すら孕んでいるように聞こえる。その様子には、有無を言わせぬ迫力があった。
「何だよ最上。何でそんなに怒ってるんだ?」
突然の光彰の豹変ぶりに田岡が戸惑っていると、光彰はさらに田岡に睨みを効かせた。その表情はまるで、敵に対峙する獣の王のように見える。
「恵那の行動のおかしさについては、お前は何も語るな。学校は……、いや、理事会はその事を詳らかにするためにちゃんと動いている。父もだ。その父曰く、恵那と戸田夫妻のまわりには、俺たち子供では太刀打ちできないような黒い話が腐るほどあるらしい。そういうものには、迂闊に近づかない方がいい。ただでさえ、お前は教師と深い仲にあるんだ。今は見逃されていても、いつどうそれを利用してお前を追い込んでくるのかは分からないんだぞ。あまりあいつらを甘く見ないことだ」
光彰は、田岡の目を見てそう告げると、牙を剥くような表情をして見せた。その目は、まるで群れを荒らされるのを防ごうとしている獅子のように見える。そして同時に、田岡自身を慈しむ優しさも備えていた。
「お前が恵那と舌戦になったとして、その場合には負ける未来しか見えない。この反省指導のあいだでも、お前の話には齟齬があった。それに気がつけないようでは、身を滅ぼすだけだぞ」
田岡は、光彰のその言葉に「齟齬……?」と呟く。そして、ハッと目を見開いた。その齟齬というものがどこにあったのかを、光彰の視線が教えている。
その目は、田岡の布を握りしめた手と、埃の無くなったキレイな鍵盤を見比べていた。
「戸田の代わりに、ピアノだけはいつもキレイにしていたんだろう? 好いた相手が大切にしているものをそうして守っているのなら、陰ながら支えると決めたのなら、もっと上手く嘘をつき通すんだな」
「あ……」
田岡は眉根を寄せる。それを見て、黎はようやく光彰の言いたいことを理解した。
——ピアノを水拭きしようとした人間が、手慣れた様子で鍵盤をキレイに拭き上げて行くなんて……。最初のあれは、嘘だったんだな。
光彰は田岡を睨みつけていた。




