光彰と千夜、千晃と黎7
「時計塔にいる霊は千夜だけじゃ無いが、そのほとんどは無害だ。自分が死んだ理由がわからずに彷徨ってはいるものの、誰かを殺そうとするほどの強い思いは持っていない。『時計塔の千夜』の噂は千夜が亡くなった直後からあるが、その頃には、既に千夜は俺と契約を交わしている。千夜が何をするかは、全てが俺の命令次第だ。そして、前にも言ったが、俺には人を呪い殺したいと思うほどの執着が無い。つまり、俺と千夜の預かり知らないところで、誰かが俺たちを利用して殺人を行なっているということだ。それも、もう何度もだ」
光彰はそういうと、偽物の千夜を見上げた。彼女は相変わらず遠くを見つめたままの姿で、微動だにしない。
「あれはおそらく霊が見えないタイプの人間が作り出したものだ。あの女の造形は、そういう奴らが抱く幽霊のステレオタイプみたいなものだろう。例えば……、少し透けて見える、足が見えない、しゃべらない。でも、千夜は実体化して動くことが多いし、足はもちろんあるし、止めないとずっと喋ってるようなやつだ」
「——ん? あんたもしかして、ちょっと私のことバカにしてるの?」
千夜は光彰の襟首を掴むと、力強くそれを握りしめて持ち上げた。光彰はその手を指差しながら、
「なあ、黎。噂を流している奴らは、千夜がこんなに粗暴だとは誰も知らないだろう?」
と言った。
それを見ていると、黎は思わず吹き出しそうになったが、千夜の睨みに気がついたことで、慌てて口を押さえてそれを堪えた。
それでも、その様が余計に光彰の言う通りであるように思えてしまい、それがおかしくて仕方が無い。黎は、二人のそういうやり取りを見ることが大好きだった。それをまたこうして見ることが出来て、喜びに胸が詰まっていく。
「大丈夫か?」
あたたかくなった胸を押さえて浸っていると、突然二人が慌てながら黎を心配し始めた。泣き出しそうな顔が、彼の目の前に二つ並んで迫っている。
「——何が?」
そう尋ねようとした途端、ひくりと喉が揺れた。気がつくと、黎はしゃくりあげそうになっていた。小さく揺れる自分の体に彼が戸惑っていると、光彰が反射的にその体を抱きしめた。
「兄さん、みつあき……」
しゃくり上げながら発する声が、微かに波立っていく。そして、頬を一粒の涙滴が走った。
「黎、大丈夫? どうしたの?」
千夜は黎の目を拭おうとしたが、自分の手が冷たい事を思い出し、直前でそれをやめた。光彰はそれを見て、悲しげに眉根を寄せる。今は黎の感情の動きを無理に止める必要は無いだろう。二人はそう思い、しばらくは彼の涙が流れるにまかせていた。
虎の刻を迎えた時計塔に、一人の男子生徒が啜り泣く声が響いている。それには、安堵と喜びの音が多く含まれていた。
「あー、ごめん。久しぶりに二人のやりとりが見られて、嬉しくて。もう見られないと思ってたから……」
一頻り涙を流した後にそう言いながら、黎は慌てて涙を拭った。袖で目元を拭う彼に、光彰はハンドタオルを手渡す。
「ほら、使え。そうか、お前は千夜とずっと話してなかったからな……。こいつの笑ってる姿、いつぶりに見たんだ?」
光彰から借りたハンドタオルで涙を拭いながら、黎は記憶を手繰り始めた。空を見上げながらそうしていると、時計塔に座っている千夜と目が遭う。その何を考えているのか分からない瞳に見つめられると、黎の背筋がぞくりと震えた。
「黎、どうした?」
「え? あ、えーっと、俺が兄さんの笑ってる姿を最後に見たのは……」
そう言いつつ、もう一度尖塔を見上げる。すると、そこから『千夜』の姿が見えなくなっていた。
「あ、多分あれだ。兄さんが最上の家に行ってて、そこから帰る途中にお前に手を振ってた。すごく幸せそうな笑顔で、何度も手を振ってたんだ。俺はそれを家から見てて……」
「千夜が最上に来て歩いて帰って行った日か? お前、それは……」
その時、黎の頭の中に千夜の声が聞こえてきた。
それは遠い記憶の中で、黎が最後に見た生前の千夜の姿だ。光彰に向かって笑顔で手を振り、嬉しそうに御礼を言っているところを、黎は最上の塀の外から眺めていた。
——「光彰、ありがとう! また話聞いてね!」
その時、彼女はこのドレスを着ていた。それが、彼女が私服で初めて履いたスカートだったと後で知った時、黎は無性に悲しくなったのだ。今突然、そのことを思い出した。
——「折角好きな人とデートが出来たのに」
そう言ったのは、黎自身だ。ようやく叶った恋人とのデートの日に、千夜は冷たくなって帰ってきたのだった。
——あの時、兄さんは誰と会っていたのだろう。
千夜が最後に会っていた人物。その人が誰なのかを知っている者はいなかった。そのため、彼女の最後がどのようなものだったのかは、彼女の記憶が戻らない限り、誰にも知りようが無い。当時の光彰と黎を苦しめたのは、何よりも彼女の最後の力になれなかったという自己嫌悪だった。二人は、今でもそれを知りたがっている。
——俺は知ってるはずなのに。
黎の頭の中で、笑顔の記憶が真っ黒に塗りつぶされていく。この時、彼は思い出したのだ。
この日、千夜が会っていた相手の名前は、黎だけが聞かされていた。しかし、黎は千夜の遺体を見た後から記憶が朧げで、その名前も思い出せないまま、いつの間にか捜査は打ち切られてしまった。その罪悪感は、いつまでも彼を責めた。自分の不甲斐なさに打ちのめされた黎は、次第に千夜に関する記憶を閉ざしていくようになっていった。
——そうか。俺は罪悪感から逃げたくて忘れていったんだな。
そう改めて知ったことで、自己嫌悪がまたぶり返していく。それはあまりに刺激が強く、彼の世界をグラグラと揺らしていった。
「黎!」
薄れゆく意識の中で、黎はまた記憶の中で千夜が寄り添う相手を探した。今にもその顔が見えそうになった時、入れ替わるようにして、血を流して倒れている千夜の姿が現れた。
「——う、うわああああっ!」
彼女のレモンイエローのサマードレスは、その半分以上が血で真っ赤に染まっていた。明るい色の綺麗な髪は、その血が無様に固めてしまっており、酷く汚いものに見えた。
記憶の中から飛び出してきたその姿に、黎は耐えきれなかった。光彰の腕の中でひとしきり叫ぶと、突然がくりと頽れ、そのまま意識を失ってしまった。。




