光彰と千夜、千晃と黎3
「黎」
その声に、黎はびくりと身体をこわばらせた。
何か言いようのない刺激が彼の身体を回り、思わず目を瞠る。千夜に視線を合わせる事はまだ出来ないが、惹かれるように彼女の方を窺っていく。
ひゅうっという高い音が鳴った。驚きのあまりに声を詰まらせたらしい。ただし、それは恐怖で体が強張ったからではない。むしろ、その逆のように見える。
それは、ゆっくりと彼の体に浸透し、じわじわと胸を温めていった。驚くほどに聞き覚えのあるその響きに、彼の記憶の奥底が、激しく揺さぶられ始めていく。
「俺、この声知ってる……」
それが誰なのかはまだ分からない。しかし、黎はこの声が大好きだった。その事だけははっきりと思い出している。
しかし、目の前にいるのは、おそらく、並木千夜という女子高生の霊だ。黎は彼女の名前に思い当たるところもない。それなのに、その声にはっきりとした郷愁を感じていた。
——知らない人のはずなのに、どうしてだ……?
いくら思い出そうとしてもそれは叶わず、次第に恐れよりも興味が優ったようだ。どうしてもその声の主を確かめたくなった黎は、ようやく千夜の姿へと目を向けた。
「黎……。私のこと、分かる……?」
屋上の転落防止用のフェンスのそばに立つ少女が、まるで母のように優しく彼を呼ぶ。その声は、やはり黎の胸を温めてくれていた。
彼女は、尖塔の台座に座る『時計塔の千夜』と同じサマードレスを着ていた。明るい色の髪はとても長く、春の風を受けてたなびいていた。ただ、彼女は『時計塔の千夜』のように光ってはおらず、まるで生きているようにはっきりと、実体を持って彼の目の前に立っている。
歩き始めた幼子のようにおぼつかない足取りでゆっくりと近づいて来る彼に、目を細めていたのだが、何やら面白くない事に気がついたらしい。くっと眉間に皺を寄せると、不満げな表情で彼を指差した。
「ねえ、ちょっと。黎、その調子じゃあ、あんた私のことまだ忘れてるでしょう?」
千夜は声の調子を変えて来た。その声は、先ほどまでの儚げで消え入りそうなものではなく、勝気で自信に満ち溢れた強い人物の持つものに聞こえる。その変化が、より一層彼を安心させた。それは、過去に彼を何度も安心させてくれた声そのものだったのだ。
最上の家にいて寂しくはなかったものの、血のつながりのある人間を求める時には、その声でないとどうしても満たされなかった。今目の前で彼女がしている高飛車な指差し姿は、記憶の中でその人物がおどけて見せてくれたものと重なって見える。
——「ねえ、黎。その調子じゃあ、また僕に負けちゃうんじゃないの?」
その人は、気弱だった黎にいつもそう言って発破をかけてくれた。そして、黎が挑戦して傷付けば、いつも優しさで包んで癒してくれていたのだ。
優しくて温かい笑顔と、強くて美しい視線。その全てが、黎の憧れだった。その人と、目の前のドレスを揺らすふわりと柔らかい笑みの女性。その二人の人物に、黎はいつの間にか同じ人物を感じるようになっていた。
「もしかして……、兄さん?」
頭の中で、目の前の千夜の姿に重なるのは、遠い記憶の中に笑う、兄の千晃だった。
黎の兄である柳野千晃は、学園在籍中の高校三年の夏に亡くなっている。ちょうど今彼らがいる場所から投身自殺をした。彼には性別不合による悩みがあったため、自殺としてすぐに片付けられてしまい、大した調査もされなかったという。
両親が長く海外にいるため、兄は黎のそばにいてくれる唯一の肉親だった。その兄を亡くした日の黎は、寂しさに気が狂ったように泣き喚いた。その事だけは、彼もはっきりと覚えている。
「千晃兄さん……だよね」
千夜と千晃の声が同じだと気がつくと、何かが呼び覚まされるように記憶が蘇っていった。光彰に千晃との秘密を知らされた日の事も、黎の頭の中へすうっと浮かび上がるように思い出されていく。
——「俺たち、お互いの利益のために付き合うフリをするから」
そう言っていた光彰の姿が蘇る。その隣にいるのは、長い髪を束ね、女子用の制服を着て微笑む兄の姿だった。
——「光彰が僕の夢を叶えてくれるんだって」
そう言って笑う兄の姿を見て、それまでずっと辛い日々を過ごし、やっと幸せそうな笑顔を見せてくれたことが嬉しくて、大泣きしてしまった自分の姿も、黎ははっきりと思い出していた。
「じゃあ、千夜の正体は、千晃兄さんの霊……って事?」
黎の言葉に、千夜と光彰はお互いに視線を合わせる。そして、嬉しそうに笑い、何度も頷き合った。
「どうやら今回は大丈夫そうだな」
「そうね。あー良かった、もう忘れられたくないわ。何度話しても全部忘れられるんだから……。私のかわいい黎が私のことを忘れるなんて……。もう、本当に辛かったんだからね!」
微笑む千夜は、すぐそばまで来ていた黎を迎え入れるように抱きしめた。黎はその感覚の懐かしさに驚きながらも、久しぶりに得た安堵に涙を流す。
「やっぱり……、千晃兄さんだ……」
黎がこの感覚を間違えることはない。それは紛れもなく、そばにいてくれた唯一の肉親である、優しい兄のハグだった。
もう二度と叶わないと思っていたその温もりに思いがけず出会い、彼は嗚咽を漏らしていく。その頬を雫が伝うたびに、自分がどれほど寂しい思いをしていたのかを、黎は思い知らされていた。千夜もそれを見て涙を零し、弟を抱きしめる腕に力をこめていく。
「黎、寂しい思いをさせてごめんね」
その二人の抱擁を、『時計塔の千夜』が尖塔から見下ろしていた。




