光彰と千夜、千晃と黎2
黎は思わず大声をあげそうになり、光彰にギロリと睨まれてしまった。慌てて声のボリュームを落としていく。
しかし、黎自身が千夜を知っていると言われたことへの驚きは隠せない。いくら記憶を辿っても、その中に千夜という人物は出てこないのだ。知っているはずの人をすっかり忘れてしまっているという事実に、彼は酷く狼狽えた。
「時計塔の千夜の噂を知ってるからそう言ってるわけじゃ無いのか? 本当に俺が千夜本人を知ってるっていう意味で言っているのか?」
動揺する黎とは対照的に、光彰は恐ろしいほどに落ち着いている。
「そうだ。お前は千夜自身を知ってる。あいつが生きている頃にも、お前は会ってるんだぞ。並木千夜だよ、並木千夜。その名前を聞いても分からないか? 俺が中等部にいた三年間付き合ってた、俺の交際相手だった人だよ」
「そっ、そんなこと言ったって分かんねえよ。ていうか、お前今まで『時計塔の千夜』の話をする時に一度もそんな事言わなかったじゃないか。それなのに、元カノって……。そんなの信じらんねえよ」
黎と光彰は、生まれてからほとんどの時間を共に過ごしている。光彰が星の数ほどの女子たちに告白され、それを全て断っている姿を黎はずっと見ていた。それは覚えているのに、彼の恋人の名前が千夜だと言われても、黎にはまるで覚えがない。
本当に光彰が千夜と付き合っていたのなら、こんなに綺麗さっぱりと忘れるはずなどないはずなのに、その名の彼女を紹介された覚えがまるで無いのだ。
「俺はお前に千夜の話をちゃんとしていたし、もちろん会わせてもいる。ただ、今は幽霊なわけだから……、分かるよな? あいつはあの噂の通り、三年前にここから落ちている」
そう言う光彰の目を、時計塔の黄金色の光が覆った。そこは僅かに涙に濡れている。それを見て、黎はある事に気がついた。
千夜は亡くなった生徒の霊だ。それはつまり、光彰の恋人だった並木千夜が、既に亡くなっているということを表しているという事だろう。彼は今、自分の恋人がここで亡くなり、地縛霊となっているという意味の話をしているのだ。そこに悲しみが付き纏わないわけがない。
そして、黎はもう一つあることが気になった。
——光彰、お前今まで『時計塔の千夜』の噂話をどんな想いで聞いてたんだ?
自分の恋人が亡くなった事を、他人が面白おかしく話す。その事が、どれほど彼を傷つけて来たのだろうか、そして、彼らが気に入らない生徒を呪い殺して排除しているなどと、謂れの無い話までもされている。
恋人を亡くした上に、そんなストレスに晒されたこの三年間は、彼にとってどんなものだったのだろうか。そして、事情を知っているはずの黎がそれを忘れているという事を、どう思っていたのだろうか。そう思うと、居た堪れないだろう。
「千夜は噂の通り、高校三年の時にここから落ちた。その頃には俺とはもう別れていて、どうしてここから落ちたのかは俺にも分からない。警察は自殺だとすぐに結論づけてしまったけれど、何に悩んでいたかまでは調べてもらえなかったんだ。当時の千夜には大きな悩みがあったから、そう思われても仕方がなかったのかもしれない。俺はその悩みまでは知っているけれど、なぜ飛び降りるまでに至ったのかは知らないんだ。つまり、温田見の件での小野は、当時の俺と同じなんだよ」
「そうなのか……。じゃあ、お前は小野さんの気持ちが分かるんだな」
「——そうだな。全く同じではないと思うが、近いものはあると思ってる」
「そうか、じゃあきっととても辛かったんだな。——でも、なんで俺はそれを覚えてないんだ? お前に……、大切な幼馴染にそんなことがあったんだ。忘れるなんて、おかしいだろう?」
黎はそういうと、もう一度記憶を探った。
同時に、高等部に入ってから今までの三年間に何度も聞いていた『時計塔の千夜』の話を思い返していく。光彰とこの話をしたことは、これまでにも数えきれないほどにあったはずだ。それでも、光彰は黎に今の話をした事は無い。少なくとも、黎は今まで一度もされた事は無いと認識している。
「俺がこの学校に現れる千夜の話を初めてした時に、お前はその正体を知ってショックを受けたんだろう。一緒に葬儀に出て、見送って、そこまでは大丈夫だった。でも、忌引き明けからしばらくして、お前は高熱を出して寝込んでしまったんだ。目が覚めた時には、その日から前後数日の記憶と、千夜に関することをまるで忘れてしまった。最初に千夜を知らないって言われた時は、さすがに俺も驚いたよ。それから何度も話して聞かせたけれど、その度に忘れていったんだ。今こうして話しているのも、これが初めてな訳じゃない。もう何度目なのか分からないくらいには、俺からお前に同じ話をしている」
光彰はそういうと、黎を閉じ込めていた腕を解いた。そして、肩をそっと掴み、彼の体をくるりと回転させる。そのまま、レモンイエローのサマードレスを来た人物と向かい合わせにした。しかし、黎は向かい合う事が分かった途端に目を閉じてしまった。その瞼を開くことが、どうしても出来ない。
「さあ、目を開けてしっかり確認してみろ。あれが俺と契約している、並木千夜の霊だ」
「並木千夜……。俺が知ってる人、光彰の元カノ……」
光彰に肩を支えられたままそう何度も呟いた後、黎は覚悟を決めようとした。彼女と向き合うのはとても恐ろしいけれど、自分が忘れているらしいことが、彼の側で過ごすためにはとても大切なことである事が分かったからだ。
しかし、心を決めるのはなかなかに難しい。霊と話すのだと考えると、どうしても恐ろしさが勝ってしまうのだろう、黎が握った拳の中は、じっとりと汗で湿っていた。
——自分じゃ目を開くタイミングが掴めない。
その悲壮感に、彼は潰されそうになっていく。そんな彼を助けようと、夏の空のようにからりと明るく、溌剌とした女性の声が助け舟を出して来た。




