光彰と千夜、千晃と黎1
千夜は尖塔の台座に座り足を組んだ状態で、遠くへと思いを馳せているように見えた。その横顔は、月明かりと文字盤の輝きに照らされて穏やかに輝いているのだが、やや物悲しげにも見える。
淡く儚く揺れるスカートだけではなく、彼女の存在自体もゆらゆらとゆらめき、どこか頼り無い様子に見える。その姿は、まるで真っ黒な闇の中に浮かぶ一縷の希望の光のように思えなくも無い。丑三つ時の終わりに不安を覚えていた黎は、その光に向かって吸い寄せられるように近づき始めた。
「あれが時計塔の千夜。——なんてキレイなんだ」
熱に浮かされたように、彼はそうぽつりと呟く。すると千夜は黎のその声に反応を示した。
ぼーっと漂っていただけの視線がはっきりとした意識を持ち、黎と光彰が立つ場所へと向けられる。そこに黎の存在を認めると、そのまま黙って彼を観察し始めた。人間に気づかれることも、名前を呼ばれることにも、慣れているのだろう。彼女は少しも驚く様子を見せず、夜風に髪をたなびかせながら、慣れた調子で黎に何かを囁き始めた。
「なあ、光彰。千夜、何か言ってないか? 遠くて聞こえない……」
黎は彼女の美しさに惹かれて近づきたいという思いと、今自分へ向けられた言葉を聞き取りたいという思いに囚われ、尖塔の台座へ上がるステップの手すりを掴んだ。千夜は黎のその行動を見とめると、にっこりと穏やかな笑みを浮かべる。その柔らかいながらも妖艶さを孕んだ笑みに、黎の鼓動が乱れた。
——あれ? 俺、千夜にときめいてる?
突然高鳴り始めた鼓動に戸惑いながら、手をそっと胸に当ててみる。どくんと跳ねるそれが、時折派手に乱れる事があった。
どうしてこんなに胸が高鳴るのだろうか。そう思っている彼の耳に、それまで黙って見ていた光彰の舌打ちをする音が聞こえて来た。
「待て」
光彰は、ステップを登ろうとしている黎をヒョイと抱え上げ、建屋の壁から彼を引き離した。その体を大切そうに抱き込むと、視界に千夜が入らないようにするために黎の目を手で塞ぐ。
「黎、あまりアレに近づくな」
光彰がそういっているにも関わらず、黎は諦めきれない様子でそこから逃れようとしていた。
「でも、行かないと……」
誘蛾灯に近づく虫のように、千夜へと近づいて行く。
最上家の人間の指示を黎が無視することなど、本来あってはならない。いつもなら大人しく引き下がるはずの彼が、どうしても上に行きたいと言って駄々をこねていた。その様子に、光彰はあからさまな嫉妬を滲ませていく。
「ダメだ。お前が会いたいのは、俺が使役している千夜だろう? 《《アレ》》はお前が会いたいものとは違うんだ。誘い込まれるな」
そう言うと、その腕の中を抜け出そうとする黎の顎を力任せに掴み、光彰はまた彼の目を覗き込んだ。
「ダメだって、光彰。千夜が待ってるから……」
そう言って、黎は変わらず時計塔にいる千夜を見ようともがき続けている。その状況を腹に据えかねたのか、光彰はもう一度激しく舌打ちをした。
『千夜、ここに来い。お前の姿をちゃんと黎に見せてやれ』
光彰は黎の目を見たままそう言うと、空いている方の手で黎の体を自分の方へと引き寄せた。
「わっ……! ちょっと、危ねえだろっ!」
身動きが取れないほどに引き寄せられ、黎が必死に抵抗をしても、光彰は何も答えてくれない。しかし、その代わりに背後から別の声が聞こえ始めた。
「ちょっとぉー、もうすぐ調査に行こうと思ってたのにぃー。今日会わせるなら、ちゃんと先に言っときなさいよぉー」
それはあまりにも突然の出来事だった。
それまでこの屋上には、黎と光彰以外の人の気配は全く無かった。誰かが近づいて来る足音も、声も、気配すら無かったはずなのに、今、黎の後ろには、確実に誰かが《《いる》》。
「だ、誰……?」
黎は驚いてそちらを確認しようとしたが、光彰が後ろの人物を『千夜』と読んでいたことを思い出した。それはつまり、この不機嫌そうな女性の声の主は幽霊だという事になる。その手のものが苦手な黎は、僅かに身を固くした。
「黎。後ろにいるのが、お前が会いたがってた千夜だ。——絶対に大声をあげるなよ。夜中だからな。そして、その姿をちゃんと見るんだ。お前が会いたがっている千夜の姿を、しっかりと見ろ」
光彰はそういうと、黎の肩を掴んだ。後ろを向かせようとしているのか、その指にグッと力が込められる。
「えっ! いやいや、無理無理無理!」
「なんでだよ。千夜に会いたかったんだろう? 大丈夫だって、あいつはお前には絶対に何もしないから」
光彰はニヤリと嫌な笑顔を浮かべると、がばりと黎の体を羽交締めにした。そのまま自分ごと半回転して、黎と千夜が対面出来るようにしようとしている。黎は必死になって光彰に抵抗した。何があっても、それを全力で拒否しようとしている。
「いや、無理だって! ちょっと待て! だって、お前の後ろに幽霊がいるってことだろう? 無理無理、本当に勘弁して!」
黎はそう言って怯えながらも、光彰の言いつけを守りきちんとと声を顰めていた。光彰もそれに合わせて声を顰る。吹き出しながら、小さな子供を慰めるように黎の頭を撫でた。
「……ヨシヨシ、大声を出すのをちゃんと我慢したな。偉いぞ。で、ちょうどいいからこのまま聞いてくれ。お前が霊を怖がることは知ってるし、ちゃんとその対策はしてある。お前の後ろにいる千夜は霊体じゃなくて実体化しているんだ。だから、見ても普通の人間となんら変わりない。全然怖くないはずだ」
「——ほ、本当か?」
注射を待つ子供のように大きな瞳に涙を浮かべて、黎は光彰に縋るような視線を向けた。
「ああ、心配するな……」
しかし、目の前の彼の目が、光彰を誘惑する。うるうると濡れて輝く目を見ていると、自分が何をしにここへ来たかを忘れそうになってしまっていた。
何せ、ここは逢瀬の人気スポットなのだ。そういう思念がそこかしこに残っている。霊能力者とはいえ、まだ未熟な彼は、気を抜くと色狂いの地縛霊に取り憑かれそうになってしまうのだ。
しかし、今はそれどころでは無い。光彰は必死にかぶりを振ると、本来の目的を果たすために思い切り深い呼吸を一つした。
「——お前が怖がるべきは、俺が使役する千夜じゃない。それに、そもそもお前は千夜を知っているんだ。ただ忘れてるんだよ。だから、しっかり顔を見て、ちゃんと思い出してやれ」
「俺が? ……千夜を?」




