異変13
コツ、と足音が鳴る。光彰は黎を睨んだまま、下がる彼を追いかけるようにして、一歩ずつ近づいていく。
——なんだ? 怒ってるのか?
葉咲の名を出したことで気分を害したのかと思い、黎はなぜ彼の名を出したのかを説明しようとした。しかし、光彰の表情はそれをさせない。何かを確かめるかのようにじっと黎の目を見つめている。
何故そんな上々になったのかが分からず、黎はただ完全に気圧されてしまっていた。それでも、なんとか声を捻り出す。
「あ、あのな、お前と千夜の事についてなんだけど」
ようやくそこまで口にしたものの、今度は光彰の行動によってその先を阻まれてしまう。
「んぶっ!」
黎のそばまでやってきた光彰は、恐ろしさに縮み上がって言葉の出ない彼の口に、洗い立てのハンドタオルを押し当てた。それは、ついさっき渡されたフェイスタオルと同様に、ふわりと優しくて柔らかな香りに包まれている。
「な、なんだよ」
黎はその優しい質感に毒気を抜かれるような気がして、彼が何を考えてそうしたのかを知りたくなった。戸惑いながらも顔を上げる。すると、そこには子供のように無邪気な光彰の笑顔があった。
それは、つい先ほどまで見せていた表情とは打って変わって、これまでに見た事がないほどに柔らかなものだった。黎は思わず息を呑んむ。あまりにも無垢で楽しげなその顔は、眩いばかりに輝いて見える。気づけば、彼の胸は早鐘を打っていた。
「——悪い、お前があんまり怖がってるから、つい」
そう言うと、彼の頭にポンと手を乗せる。まるで小さな子供を宥める父親のように、髪をくしゃりとかき混ぜた。
「怖がってるって……。もしかして、俺が何を訊こうとしてたか分かってるのか?」
あの噂を聞いてから、まだ光彰とは話していない。それなのに、彼は何もかもを見透かしたような様子で、余裕のある様を見せつけて来た。
「まあ大体、な。それに、ちゃんと俺の事を信じてくれてるし、それでも何故俺が隠し事をしているのかが分からなくて、不安になってる。そこまでなら分かってる。でも、殺しに関わっていないと信じてる割には、俺を見て酷く怯えるから、それがどうしてかは分かってない。言ってることとやってる事がバラバラだなと思って、それがちょっと面白かったんだ。お前らしいなと思って」
そう言うと、彼は珍しく大きく口を開けて笑った。その姿を見ていたら、黎の方も気が抜けてしまったようだ。彼もほっと安堵の息を吐き、繊細な花が香るようにふわりと笑う。
ただ、黎は面白くないと思ってもいるだろう。彼は光彰の事が分からずに悩んでいたのに、光彰は黎の事を分かりきっていると、そう言ってのけたのだ。そこにやや悔しさを感じているに違いない。
「何だよ、お前は何でも分かるんだな。よく分からない不安に駆られてた俺が、バカみたいだろ。それに、そこまで分かってたなら、ちゃんと話せよ。どう聞き出したらいいか分かんなくて、ずっとモヤモヤしてたんだからな」
「ああ、すまない。それは本当に俺が悪かった。そうだな、噂を知った時にすぐお前に話せばよかった。——葉咲が吹聴してる話の真偽の程を知りたいんだよな?」
黎にそう訊ねる光彰の目には、先ほどまでとは打って変わって真剣で、そして、僅かに不安の色が滲んでいた。
「その話をするなら、時計塔のそばまで行った方がいいだろう。お前に見せたいものがあるんだ。それと、その噂に関することで、もう一つお前に話さないといけないことがある」
「え、なに? 何か隠してることでもある?」
「——そう。出来れば卒業してから話したかったんだが、今朝の騒ぎとその噂のことを考えると、それもそろそろ話しておいたほうがいいだろうと思って」
光彰はそう言うと黎の目をじっと見つめた。その眼差しは黎の目の奥のさらに奥までを見透かしてしまいそうなほどに強く、彼を捉えて離さない。黎の体の奥の方で、何かがその眼差しに反応するような気がした。
「……いいな?」
「ん? わ、分かった」
その光彰の目が何を言おうとしているのかが、黎にはよく分からない。何かに同意を得ようとしているのだろうとは思ったらしいが、それが何を意図しているのかは思い至らないようだ。
ただ、彼は間違いなく打ちのめされていた。光彰に隠し事をされていたという事実がはっきりした事で、裏切られたような寂しさを明確に自覚する。
大切な幼馴染をずっと信じていた彼にとって、隠し事をされていた事は予想よりも辛かったのだろう。
黎は胸に手を当てた。規則正しい拍動の中に、微かな動揺が現れ始めていた。




