異変7
「こんなところでどうしたんだ。先に戻れと言っただろう」
「そう……だ、な」
黎は、階段の踊り場に滴る汗をそのままに、呆然とした表情で立っていた。しかし、いつもとやや様子が違っているように見える。
その目からは、彼の意思を感じられる光がすっぽりと抜け落ちているように感じられた。まるで何かに操られているような、人形のような雰囲気を纏っている。
「黎? どうしたんだ」
真っ白な肌に幾筋かの汗を伝わせたまま、黎は光彰の問いには答えず、ただ彼の方を見ていた。いくら話しかけても、黎はそれに答えようとしない。ただぼんやりと彼の方を見つめたまま、苦しげに呼吸を繰り返していた。
「——何かあったのか?」
ランニングウェアを着ていることから、黎が走っていたことは光彰にも分かっている。ということは、黎に何か嫌なことがあったに違いないと、光彰は気づいた。
走ることがよほど性に合うのか、最近の黎は暇さえあれば走っている。光彰は、それを離れた場所から黙って見守るようにしていた。特に春休み以降はその頻度が高く、今ではほぼ日課のようなものになっている。
あれだけ走っていれば、自分がどんなペースで走ればいいかという事くらい把握しているものだろう。しかし、今光彰の前に立つ黎は、ひどく疲れているように見えた。顔色もあまり良くない。
「そんなに具合が悪くなるまで走っちゃダメじゃないか。ほら」
汗が冷えることを心配して、光彰はカバンの中からハンドタオルを取り出した。そして、そのタオルを黎の頬に当てる。彼の頬を、柔らかなパイルがふわりと包んだ。
「——あ、りがと」
黎はぼんやりとしたままそう言うと、珍しくその好意を素直に受け入れた。その反応に、光彰は片方の眉をピクリと動かす。そして、「——ああ、そういうことか」と呟いた。
最上光彰という人は、あまり誰か特定の人をそばに置きたがらない。しかし、黎だけには、いつも必ず隣にいるようにと要求する。なぜなら、黎は彼にとって何にも代え難い存在だからだ。
二人で一緒に過ごすようになったばかりの頃は、まだキングなどという呼び方もされていなかった。彼らは、光彰の父と黎の母が兄妹という間柄の従兄弟同士で、友人としても仲がいい。
長い間、二人はただそれだけの関係だった。そうであるようにと、光彰は最新の注意を払って二人の関係性を保って来ている。
そうするためには、黎の様子を詳細に把握していなければならず、黎に少しでもいつもと違うところがあれば、光彰はすぐに気がつくようになっていた。
黎の場合、大抵それは目の奥に現れる。瞳の奥が揺らめく時、彼の体がそこにあったとしても、彼の精神はそこにはいないのだ。そして、あるモノが代わりにそこに入り込んでしまう。
「お前、日中に出てきたらダメじゃないか。ちゃんと元に戻れ」
光彰はそう言うと、黎の目の前に徐に人差し指を差し出した。
これは、二人が特別な関係にあることを表している。光彰が印を切り、黎の目がそれを捉える時、彼らの関係性は、主従関係へと変わるのだ。
黎はそれをじっと見つめる。その指先に、どこからとも無くほわりと柔らかな光が浮かんだ。それを見つけると、黎の愛くるしい瞳はさらに大きく光り輝いた。
「そうだ、よく見ろ。そして、夜まで眠っておくんだ」
光彰は黎が光に惹きつけられたのを確認すると、それを黎の目の前ですーっとスライドさせていく。それに魅了されたように夢中になった黎は、必死に視線を注ぎ続けた。
まるで引き寄せれていくかのように、体ごとそちらへと引っ張られていく。その光が彼の双眸へと吸い込まれると同時に、黎は糸の切れた操り人形のように倒れ込んだ。
「そうだ、眠っておけ。必ず夜には出してやるから」
光彰は優しく微笑むと、黎額に手のひらを押し当てる。するりとそこを撫でると、黎はそれに微笑みを返してから後に目を閉じた。
「——よし。黎、お前は戻って来い」
頽れた黎の耳元に、光彰がそう呼びかける。すると、目の奥の揺らぎが一瞬その強さを増した。それは次第に弱まっていき、消えると同時に、汗に濡れた体が大きくぶるりと震える。
再び開かれた瞼の奥には、しっかりと黎自身の光が戻っていた。




