依代4
黎も八木も、まだ気がついていない。
その背中に、影はゆっくりと近づいて行く。
まだ陽が落ちていないため、時計塔の秒針は、歯切れ良い音を立てながら時を刻んでいた。黎はその音を聞きながら、丘の下へと思いを馳せていく。
一人で考える時間が得られるようにと、八木は黎のいる場所の対面側、つまり、職員駐車場が見える方に立った。
鴇色に染まる空を見ながら秒針の音を聞いていると、いつの間にか深いリラックス状態へと誘われ、二人は意識を溶かしそうになって行く。
美しい景色と相まって、夢と現の境界にいるような気になっていた。二人は暫し、その非日常な空間にただ揺蕩うように佇んだ。
初夏の夕暮れ、だんだんと冷えていく空気の中で、二人はいなくなってしまった光彰の存在を噛み締める。
霊を使って人を呪い殺すということを、法的に証明することは不可能だろう。そもそも、呪い殺すといっても、何をどうすることが呪い殺すということなのかを証明し得ない。
それを考えると、一つ見えて来ることがある。犯人は、光彰を犯人として仕立て上げることを目的としているわけではないということだ。
では、一体何が目的で『キングの怒りを買ってはいけない』という噂を流しているのだろうか。それをはっきりさせなければいけないだろう。
——千夜さんの件を先にやるべきか……。
千夜の最後がどういうものだったのかを明らかにできれば、光彰も黎もここをやめても構わないと思っている。
それならば、そちらを先にやるべきかと、八木は頭を悩ませていた。
「あれ、誰かいるんですか?」
そうやって二人がそれぞれに夕暮れの時計塔での時間を過ごしているところへ、誰かが声をかけて来た。その声の主は、階段室を出てこちらへ向かって来る。
「才見先生」
景色に見惚れたぼんやりとした意識のまま、黎はじっと才見を見ていた。
才見は時計塔のそばに立ち、その色素の薄い体に黄金色の光を受けていて、うっすら発光しているようにすら見えた。
若さゆえなのか、その体は、やたらと煌めいているように見える。
「キレイだなあ」
思わずそう呟いた黎は、その言葉で我に帰った。ここでようやくことの重大さを認識出来たのだろう。
目の前にいるのは、才見だ。つまり、彼らがここにいることを教師に知られてしまった。黎の顔から、さあっと血の気が引いていく。
無断で他寮棟に上がったことを咎められると思った黎は、はっきりと自分だと知られる前にこの場を去った方がいいだろうと考え、急いで八木に知らせようと、勢いよくそこ立ち上がった。
「八木くんっ……」
しかし、その判断が良くなかった。
陽が傾いた屋上で後悔の涙を流していた目では、視界はかなりぼやけていた。よく見えないままに急に動いたからか、彼は目測を誤ってしまう。
「うわっ!」
ぐらり、と、黎の体が揺れた。
第三寮は基本的に立ち入りが禁止されており、時計塔へ入るためには階段室のドアに設置されている鍵を開けなくてはならない。そのため、普段は出入りは出来ないようになっている。
しかし、昨年の秋頃からここを逢瀬に利用している生徒たちによってその鍵は壊されていて、学校はそれを承知していながらも、未だに修繕をしていなかった。
生徒を守るためにも、危険は極力排除すべきで、安全対策は万全を期するべきだ。しかし、清水田学園はそれを怠っている。
そういった怠慢があちこちに見られるため、今の校長である恵那はダメだと噂されているのだ。この屋上の設備は、いくつか修繕を必要としている箇所がある。
黎はよろけた拍子に、近くにあった金網の柵に思い切り体当たりしてしまった。そこが運悪くその『管理が行き届いていない場所』だったのだ。
柵は、彼がぶつかった衝撃を受け止めきれず、簡単に傾いてしまった。
「わっ……!」
急激に視界が乱れる。そして、落ちる——と思った黎は、ぎゅっと目を閉じた。
柵はそのまま激しい音を立てて折れ、地面へと落ちていく。
「——おいっ!」
柵が折れた音に気付き、八木が黎へ駆け寄った。金属製の柵が落下したことで、夕暮れの学園内に、派手な騒音が巻き起こる。
「柳野っ!」
その音が鳴り響いた時、八木の手はまだ黎に届いていなかった。
「柳野くんっ!」
しかし、間一髪で黎は落下せずに済んだ。才見が、彼に飛びついて彼を引き戻し、それを阻止してくれたのだ。
「う、わ、あっ……っ!」
しかし、転落は止められたものの、二人揃ってそのままの勢いでコンクリートに体を打ちつけた。
ごつっという音を立てて、二人はコンクリートの上に倒れ込む。地上では、柵の転落を見た生徒が悲鳴をあげていた。
突然の出来事に放心したのか、二人は呆然として座り込んでいる。八木は慌てて黎を引き寄せた。
「柳野! 大丈夫か?」
「あ、ああ……」
「それ、血だろ? ケガしたのか?」
「——え? あっ、本当だ」
「痛むか?」
「いや、大丈夫だ。でも……」
打ちつけた場所が擦り傷となり、黎のシャツに血が滲む。肘とその周辺に浮かんだ赤いシミを見て我に帰った才見が、八木の肩を掴んで押しのけ、そのまま黎の肩を掴む。
そして、普段の彼であれば出さないであろう大きな声で、危険を顧みない行為をした黎に向かって叫んだ。




